戦争と平和への運動と創作

 会の趣旨に(1)日本美術会は第2 次世界大戦後、新しい歴史を切り拓くことを誓って新憲法と同時期に誕生しました(後略)。(5)会は、平和な世界を願い、戦争と侵略をやめさせ、核兵器の廃絶をめざし、地球環境を破壊から守るため積極的に取り組みます。(2011年改定)とある。これは会の中心となる理念であり願いであって会の創立精神の骨格となっている。
 創立以来行ってきた「戦争と平和」の様々な活動と残された作品は会と日本アンデパンダン展の特質として、質量ともに誇るべき貴重な運動と作品群である。この視点から70 年の運動と創作活動を見ることは意義あることであろう。そのごく一部ではあるが検証し、記録したい。ただし、会の運動や日本アンデパンダン展の作品がこれらに限定されるものではないことは当然であり、記録した作品だけに「特別」の評価を与えるものでもない。
●創立初期
 「会が広範な美術家の統一組織として誕生し、自由で民主的な日本美術の発展を掲げたことは、軍国主義に蹂躙された悲惨な経験から必然的に生まれた」など「日本美術会のあゆみ 1」の発端に詳しく記述されている。会の「自由と民主主義」の旗が反軍国主義、平和を願い美術家としてあらゆる努力をする事と深く結びついていることが判るだろう。
 戦争責任の追及の項では、美術界全体の反省を強調し、戦争責任の追及は政治問題として一時的手つづきに終わるのではなく、文化・美術問題として継続的に徹底して行う。美術表現、創作活動を通して反戦平和を希求する。としている(1946 年)。
 第2 回日本アンデパンダン展では「ファシズム反対・・」のスローガンを掲げ、靉光、柳瀬正夢、川上律江らの作品143 点を「戦争犠牲美術家の遺作」として展示した。
 1950 年「平和運動の提案」(6 月、拡大中央委員会)が出され、各支部に実践の訴え、日本美術家連盟にも呼びかけた。(No .12 美術運動誌)
 又、「巨匠マチスも署名―戦争反対、原爆廃棄のストックホルム・アピールに際しては、わが国美術家の間でも多数の署名を得ているが、フランスでもピカソを始め、南仏ニースで画筆を振るっているマチスが参加している・・」(同誌No .13)と紹介。
 「ピカソの平和運動ポスターが第4 回日本アンデパンダン展に飾られ、一般に多大の感銘を与えた。送料共90 円で頒布中」とポスターの写真入りで報じている。(同誌再刊2号、1951 年)その後、ピカソから4 点のリトグラフが寄せられ、複製の許諾もあり、平和運動基金として頒布した。
 6 回展では世界7 カ国の平和ポスターの特陳があった。1952 年には朝鮮戦争や破壊活動防止法を契機として「平和宣言」を発表。その後「平和美術展」が発足し、全国で次々と開催され、日本美術会と共に平和を求める運動の母体となった。日本美術会会員もこれに積極的に加わり、大きな役割を果たしている。
 この頃、日米安保条約の下、自衛隊発足(1954 年)や水爆実験(1954 年)があり、基地闘争や原水爆禁止運動に取り組み日本アンデパンダン展でも後世に残る作品が発表された。
 初期の作品では1 回展 佐田勝「廃砲」、3 回展 丸木位里・俊「八月六日」(後に「原爆の図第1 部 幽霊」と改題)、大塚睦「ハンスト」、4 回展 矢部友衛「平和署名」、6 回展 浜田知明「初年兵哀歌」、7 回展 箕田源二郎「内灘」、池田龍雄「ぼくらを傷つけたもの」、9 回展 中村宏「砂川5 番」、本郷新「嵐の中の母子像」などがある。
 これらの作品は日本アンデパンダン展の歴史に残る記念碑的作品であるとともに、日本の戦後美術史に欠かせない作品であろう。
● 60 年安保
 1959 年、安保条約反対の大運動が日本中で湧き上がるが、日本美術会もまた、他会派の美術家と共に旗を掲げ、連日デモに参加した。「安保批判の会」「全国美術家協議会」を組織し参加した。
 政治活動と創作の関係をどうみるのか、賛否の議論が白熱する中、14 回展「1960 年のたたかい」(99 点)という課題制作の企画を行った。
 この時期の作品として13 回展 桂川寛「それでも彼らは行く」、第14 回展 市村三男三「夜空に輝く平和の旗」、15 回展 上野誠「原爆の長崎シリーズ(原子野・叫び)」、 などがある。井上長三郎は第2 回展に「漂流」を発表し話題になったが、1965 年(50 回検証展出品)「ベトナム」、36 回展「光州」と歴史的な作品を発表した。1960 年「美術運動」誌の「安保に関する美術家の発言」特集で「新安保は日米のごく少数の人達の利益を守るため、あの思い出してもぞっとする戦前戦中に味わった臨戦態勢を今度もまた作ろうというのでしょうか」と述べた。
●ベトナム戦争
 1964 年から始まったベトナム戦争では、米軍の爆撃機が沖縄米軍基地から発進し、その残虐な戦争は日を追ってエスカレートし、世界中に反戦運動が広がった。日本美術会、そして会員一人ひとりがデモに参加、署名、カンパ活動そして創作へと立ち向かった。「ベトナム人民支援」の小品即売展が各地で幾度となく行われた。又、「沖縄を返せ」の運動とも連帯し、「沖縄全面返還のための版画展」が本土、宮古島、石垣島など6ヶ所で巡回展が行われた。「ベトナム人民支援」のための小品即売展は日本アンデパンダン展会場でも毎回行い、多くの支援金を集めた。この小品展は31 回展(78 年)頃から平和運動支援のためのカンパ活動として引き継がれ、以後20 年余にわたり日本アンデパンダン展会場で続けられた。
 ベトナム戦争をテーマとした作品では、それまでアンデパンダン展にはそれほど出品されていなかった糸園和三郎 25 回展「友」、50 回検証展「黄色い水」などのベトナム連作、いわさきちひろ 28 回展「戦火の中の子供たち」シリーズ6 点はいずれもベトナム人民への深い思いと、戦争を何としてもやめさせたい気持ちに満ちた出品であった。また、まつやまふみおは9 回展「ダレスとカラス」、20 回展「殺戮の王冠」、50 回検証展「わたしはひばりがききたい」など多くの作品があり、風刺漫画で戦争の醜い本質に迫っている。滝平二郎18 回展「鉈鎌」、50 回検証展「赤い炎」がある。吉田利次、渋谷草三郎など多くの作家がつづいている。
 70 年代の作家では、井上肇が26 回展「忘れえぬ肖像」以降、19 回連続で軍服シリーズを出品。白水興承は33回展「難民」から44 回展「死者の跡」まで白骨が積み重なる鎮魂の連作であった。長谷川匠、川上十郎、川内伊久も注目された。
 1977 年「美術運動」誌で「戦争と美術」を特集し、106 号、108 号で2 回の座談会「戦争の中の美術家たち」、107 号「戦中のデッサン選」を出した。この時期出された声明の主なものでは、1978 年「有事立法反対」、1983 年「新ファシズムに対する統一戦線のよびかけ」決議、1984 年「トマホーク反対」決議、1985 年「反核」声明・「国家機密法反対」アピールを出し国会請願を行った。国家機密法反対では内外の美術家へのアンケートを行い50 人が答えた。山下菊二「戦争中、軍部の○秘や極秘印が捺印されると、都合の悪いことを秘匿してしまう。そして表現の自由が奪われた。このような危険性を持つ国家機密法に私は反対します」。野見山暁治「どういう性質のものか、又、どういう危険を内蔵しているものか、小生、無知なのである。しかし、ある事態が起こった場合、無知だったでは済まないので、早くその実体を知るように務めます」と答えている。
 以降の作品では戦時体験を風化させまいとする古参会員の杉本博 54 回展「紅い花」、55 回展「160(青春)」、上原二郎の39 回展「戦争」、52 回展「戦争の記憶・日本兵の生活」、小室寛52 回展「家族の肖像」などがある。戦時中の記憶を焼夷弾などで造形化した首藤教之48 回展「1945」、52 回展「少年期」や鯨井洪49 回展「731-MARUTA」、52 回展「三光(万人坑より)」などの大作のシリーズも戦争の実態を暴き平和を願う。沖縄や広島では宮良瑛子、上原まさのり、渡辺皓司の沖縄シリーズ、四国五郎、下村仁一らが、その地方の歴史から「平和への叫びや核の脅威」を描き続けた。
 アウシュヴィッツをテーマに連作を続ける若山保夫や星功がおり、イラク戦争では、古澤潤「シリーズ・IRAQ BODY COUNT - 死者の譜」31 点連作は82,199 もの死亡した市民の形を描き続けた。市井の人々を描いて来た岡本博は55 回展頃から、人々は暗く悲しい表情をたたえ、後方には銃を構えたものやどくろがうごめく作品になり、現代の危機や人々の不安、怒りが伝わる。
 他に八柄豊、小池仁、小番つとむ、などがおり、その外にもここで取り上げていない作家が多数いる。
 忘れてならないのは直接の戦争を描いた作品だけでなく、人物像、母子像あるいは花や風景、日常の生活を描いている作家も、「いのち」をいつくしみ、それゆえに理不尽な戦争への怒りや悲しみを作品にこめて描いていることだ。
 1996 年、日本美術会創立50 周年記念講演「戦争と美術」で永井潔は「戦争の準備が着々と進んでいた時にわれわれは、まだ呑気だった。気づいた時すでに遅かった。そして今日は戦前の時と全く同じような感じがする」と語った。
 近年の戦争と平和に関わる会の「声明」やシンポジウム、九条美術の会の活動は「あゆみ7」「年表」に記載しているが、2001 年以降でも講演会、シンポジウムは7 回行っており、大きな注目があった。
 また、九条美術の会では広範な美術家に訴え、その賛同者も多く、九条美術展への出品やメッセージでは野見山曉治、宮崎進、辻惟雄をはじめ著名な方々も多数加わり、活動が広がっている。第5 回展では一般新聞の夕刊にカラーで大きく取り上げられるなど反響も大きい。
 近年、藤田嗣治や横山大観の大きな美術展が度々行われたが、「戦争責任」には無視あるいは関わった記述さえ極めて少ない。会理論部の北野輝が「美術運動」誌などでそのつど批判や危惧を述べ、問題を指摘したが、メディアや主催美術館などの見識が問われるだろう。東京国立近代美術館の「戦争画」展示も併せて、今後も注視しなければならない。また、藤田「戦争画」(特に「アッツ島玉砕」と「サイパン島同胞臣節を全うす」など)の肯定的な評価が一般化する中で、われわれ自身の評価も厳しく問われる状況にあり、議論と検討を深めるべきだろう。
 65 年前の「美術運動」誌(1951 年再刊4 号)「平和と美術」座談会では佐藤忠良、鶴岡政男、永井潔、吉沢忠(批評家)らが参加し、鶴岡「今後われわれはどういう風にするか、政治的意識も必要だが、仕事の上でやっていかなければならないと思う。しかし、仕事の上でやっていて果たして平和を守れるだろうか、どうか。我々より大きな世界的な力に対して守っていけるかどうか」。吉沢「しかし作品の上で平和を守ることが出来ないくらいなら、それ以外ではよりいっそう守ることが出来ないのではないでしょうか」(中略)佐藤「りんごを描いても平和を守ったといってもよかったかもしれないが、今はそれではダメだ。平和を戦いとるという考えが絶対に必要だ」。全員「なかなか難しい問題だ」。吉沢「この座談会で皆さんが真剣に平和を考えていらっしゃることは、他の若い美術家に大きな影響を与えると思いますが、それはここにいる方の画を尊敬するからで、作品で守るということはそういう行動に裏づけされた作品ということではないでしょうか」。永井「そう。結晶点が作品であるということで、作家の全行動の結果が作品に結晶することが必要でしょう。画家でなければ守れないまもり方でなければダメだというわけです」とある。美術家としての運動や創作のあり方を自問自答し続けた70 年でもあった。
 2017 年、今日の世界は極端な貧富の格差の中で紛争やテロは絶え間なく起こり、新たな国家主義や極右の台頭が危惧されている。日本でも憲法、民主主義、平和を守り発展させる闘いはこれからである。私たちの反戦平和の活動や作品は今後も一層重みを増すであろう。