私の八月 15日

                                市川 佐江 

梅雨明けの山陰、島根半島は亜熱帯地方と言えるほどだ。野山は昆虫の宝庫となり目覚める。私は母の実家である半島の中間にあたる地、日本海、潮のかおりがただよう伊野村に疎開してきた。この地で小学校を卒業する六年間をアウトドア少女として自然への興味と探検の日々を過ごすこととなった。日本の子供の伝承遊びのあくなき追求に明け暮れていた。自由という名の小宇宙を創る日々でもあった。少女時代の思い出は、今も五感をとおして鮮やかに豊かに写し出される。自然と生活と遊びが融合し、純粋にイメージの世界としてのみ存在している。文章で表現することは難しい。しかしながら、昭和二十年八月十五日から七十年近くの年月が過ぎた。それでもまだこの日のことを証すことは忘れない。

蒸し暑い夏の一日、何時もなら海に下りているはずだった。怒りっぽく、泣きたいような不快なものが頭の中からはなれない。身体がぐったりとして起き上がる力もない。昼寝のまどろみの中にあった。

ガヤガヤとさわがしく、シクシクと悲しげに怒っているようでもある。ぼんやりとした私の頭の内に大人たちの声が伝わってくる。母の茶飲み友だちである。普段とは様子がちがうのである。「神風がおきる、日本は戦争に負けるわけがない。」母の眼が赤く泣いているように見えてくる。戦争は終わったのだと子ども心に直観した。頭の中が次第に晴れていくのがわかった。栄養失調と長すぎた昼寝の不快さをはねのけたその時の感激は忘れることはない。立ち上がった私は窓に広がる海を見つめた。前方には終戦を知らせる白い船が白い旗をたて東から西に向かっていくのを見た。赤い夕日にそまった日本海はこの日こそ、美しかった。私はうれしい思いで船を見送っていた。もう二度と戦争がおきないことを願った。平和への第一歩をかみしめた時間でもあった。後になって母は父の墓石に刻んだ。「夫、弘光、フィリッピン、マニラにて戦死す。」母にとって反戦の誓いにも似ていた。

島根半島の豊かな自然は父となりかわって、その大いなる懐の内で、自らを育てていくこととなった。子どもたちは、また探検と伝承遊びに余念がなかった。