参加費:500円
若くして日本美術会の創立に加わった永井潔(1916~2008)は、以後一貫して会と歩を共にし、民主主義的美術運動の実践と理論の両面において中心的役割を果たしました。日本美術会創立70周年の今年は、はからずも永井潔生誕100周年に当ります。これを機会に彼の活動を振り返ることは、戦後美術運動の歩みを振り返り検証することと重なり、危機と希望の交錯する「今」を見定め、「未来」を見通すことにつながるでしょう。
永井潔さんの生涯における活動は一画家の域を超えて、実践と理論の両面において実に多面的であり、短時間で語り尽くせるものではない。そこでここでは最も重要と思われる一点にしぼり、彼が民主主義的美術運動の出自や現地点の有り様を的確に映し出した「鏡」を遺してくれた点に注目したい。その「鏡」(例えば『あの頃のこと今のこと』など)には、
①日本美術会の多面性を含んだ出自と独自性、
②民主主義的運動体としての開かれた自覚性、
③その「中核規定を持たない多元主義的連帯」という発展的なとらえ直し、等が映し出されている。
それらの意義について考えてみたい。
[略歴]1936年生れ。1966年東京芸術大学大学院修士課程修了(美学専攻)。1967年~2002年 和歌山大学その他の教員。日本美術会会員。
プロジェクターによる画像映写を用いつつ、
○ 画家永井潔が生まれるには、どのような経緯と葛藤があったのか。
○ 永井絵画の特徴、魅力とその存在意義について。
○ 人柄その他についてのエピソード。
などについて話したい。
[略歴]1936年 群馬県沼田市生まれ。埼玉大学教育学部美術科卒業。19回日本アンデパンダン展出品、以降継続。1975 年教職を辞し、画業に専念。日本美術会会員。著書画集2篇(秩父事件連作画・油彩画)。
60年代高度成長期の生産関係の巨大な変化は、確かに美術にも大きな影響を与えている。もちろん他ジャンルの芸術も例外は無い。井上長三郎さんに「創作方法の転換を要求する」と言われたことも印象に残っている。その事を永井さんに話した時に「創作方法は生産関係の反映である」という発言に繋がったとも思うのだが、それは私の記憶の中で勝手につなげているのかもしれない。
60年代の高度成長の以後、大きな創作方法上の変化は美術作品にも顕著であって、個々の作家の変化を指摘することは容易である。永井さんの溌刺とした新古典主義のヒューマニズムは、方法の転換に向う事は無く、文学、美学上の考察、文化論などへの思索に向ったと思われる。
[略歴]1950年生れ(名古屋)、幼年期から蒲郡市で育つ。1973年日本アンデパンダン展出品(以後毎回)。1995年錦江自然美術展(韓国)出品、以後野外でのインスタレーション作品制作。
永井さんは芸術の起源と性質の解明に深く切り込んで、芸術が人間と社会にとって必然的な活動であることを示した。そして芸術が形象的認識であって、科学や学問的な認識と共に真実の探求に重要であることを論証して、芸術家に心強さを与えた。世の中を正確に認識するところから、未来も新しい制作も発していく。
また古典的な哲学と常識に裏付けられた反映論の立場から、芸術は仮象であるという見地を解説して、芸術的仮象が現実を正しく強く表現することも説明した。この弁証法的な観点を血肉化すると、自由闊達に創造が展望できるであろう。永井理論の、的確さ、柔軟性、楽しさなどを話したい。
[略歴]1940年福井県生れ。1966年東京芸術大学大学院修士課程美学専攻を修了。1966年~1972年パリ大学博士課程に留学。1973年~2005年金沢美術工芸大学教員。1973年から日本美術会会員。
あるとき永井さんに「広津和郎は、絵画、音楽、文学さまざまある芸術の中で、文学は人生のすぐ左隣りにある芸術だといっていますが…」と話したところ、「ああ、でもミケランジェロなら人生のすぐ隣りは美術だといったろうね」とたちどころに涼しい顔で切り返されてしまった。永井さんも経験した50年代初頭の厳しい時代に、ある劇団主宰者が「もはや絶望だ」といったとき、ある作家が「もはや希望しかなくなった」といったとか。永井さんの思考はすべて安易な通説を疑い、その歴史に遡って新たな真理に光を当てる。「エンゲルスは空想から科学へといったが、これからの世界は、『科学からふたたび空想へ』が重視されねばならない」という永井さんのことばには、芸術への本来的な信頼がこもっている。
[略歴]1940年東京生れ。名古屋大学文学部哲学科卒。日本民主主義文学会会員。日本文芸家協会会員。「地熱」で第19 回多喜二・百合子賞。小説、ルポルタージュ分野で執筆。近著『大間・新原発を止めろ』(大月書店)。