日本美術会のあゆみ 7

新たな活動の場へ

2001 年~ 2016 年

社会の動き―アメリカ一国支配の終焉、右傾化する日本
 9.11 同時多発テロ後(2001.9)アフガニスタン侵攻(2001 年)、イラク戦争開戦(.2003.3)があり、各地内戦とそれへの干渉、テロによる報復など、不穏な幕開けをした21世紀であったが、中国の台頭などもあり、アメリカの一国支配がゆらぎはじめた。経済面でもアメリカ主導の新自由主義がリーマンショック(2008 年)を経て、世界を同時不況に陥れる一方、グローバルな格差社会を生み出した。
 この間、日本は一貫してアメリカに追随するかたわら、特に安倍政権になってから、「明治憲法への回帰」ともいえる国家主義的・右翼的な傾向を強め、平和憲法を危機にさらしている。経済面でも、日本版「新自由主義」によって、大企業奉仕の「規制緩和」、同じくTPP 交渉参加などを強引にすすめ、国民生活は後景に押しやられてきた。ワーキング・プア、孤独死、などが流行語となる中、消費税増税(8% 2014 年)も行われた。グローバル経済の行き着く果てとして「資本主義の終焉」が語られるようになってきている。
 こうした状況のなか、2011 年3 月11 日に起こった東日本大震災と原発事故は、政治、経済、ひいては文明や科学技術、人間の心のあり方までも問う大きな事件となった。
平和と労働センター、国立新美術館
 2000 年代にはいって、日本美術会にとって、二つ、活動の場に変化があった。ひとつは日本美術会の拠点となる「平和と労働センター・全労連会館」の竣工であり、もうひとつは日本アンデパンダン展の会場の移転である。
 2001 年6 月1 日、「平和と労働センター・全労連会館」が竣工した。新センター建設は、第35 回、36 回総会において中心的な課題として提起され、多くの会員、民美卒業生、その他協力者の多大の尽力によって完成した。13 年前から会が積み立ててきた建設資金と多くの人達の個人的募金、いくつかの地域で行われたセンター建設小品頒布展の収益など、多様な形での資金活動が実った。21 世紀にはいってはじめてとなる第37回総会の報告では、「高い天井を持つ民美のアトリエは、日本美術会の後継者をはぐくみ、日美の趣旨を普及するセンターとして、また、広くなった事務所は、地方の会員や、会内外の人が気軽に足を運べる場所として、名実ともにセンターとなった。」と喜びを述べている。最終的な建設費の会負担分は3,337 万円であり、設備・備品・引越し費用などあわせて3,867 万円となった。
 国立新美術館は1995 年、公募展のための巨大貸し画廊として構想され、2007 年に開館した。日本美術会は2005 年、第61 回展(2008 年)から国立新美術館へ日本アンデパンダン展を移すことを決定した。移行にあたっては、メリット、デメリットを判断する検討材料が乏しいなか、委員会、常任委員会の場で、伯仲する議論が闘わされたが、総会で国立新美術館に移行の方向を提案していたこともあって、時期を失すると今後の要求も出しにくくなるので、決断して新しい場所で新しい展開を望むべきと移行に踏み切った。未知数部分の多い道であったが、転換点と前向きにとらえての決断であった。
多様化と混沌の美術状況
 21 世紀を迎えた美術界の状況は混沌とした状況である。表現媒体の増加により、芸術的な表現と価値の多様化がすすみ、既成の価値観でははかりきれなくなった。野外展、インスタレーションなどの分野で国際作家が進出し、地域、行政なども巻き込んだ展開がでてきて、スケールの大きな、美術の社会参加という新しい価値創造が行われるようになった。巨大芸術イベント(横浜トリエンナーレ、ヴェネッィア・ビエンナーレ、ベルリン・ビエンナーレ、瀬戸内国際芸術祭、越後妻有アートトリエンナーレなどなど)が盛況ななか、若い作家たちが、公募展を離れてコンクール展や個展に流れ、総体的に美術団体の多くが組織の維持発展に苦戦する傾向となった。
 村上隆や奈良美智らが人気を博するなど、「現代美術」の変貌が語られるようになり、美術館のアミューズメント・パーク化、街づくりの道具だてとしての利用など、「社会化・大衆化」現象もすすみ、それとともに表現も多様になった。
 こうした中、日本美術会と日本アンデパンダン展は、現代美術の動きを取り込みつつ、インスタレーションスペース、パフォーマンス、映像などのジャンルに出品の道をひろげ、混合ジャンルスペースの設置、ジャンルの壁撤廃の試み、IT 社会への対応としてのホームページの開設(2000 年)、Web 版「美術運動」の発行(2010 年)など、新しい時代への対応としてさまざまな論議と工夫を重ねてきた。しかし、手探りの部分も多く、なかでも、インターネットによる情報化社会の流れは無視できないことから、これをどう活用するかが迫られた課題となっている。
「時代の表現」の探求―戦争、3.11
 美術界には、戦後60 年、あるいは70 年の節目にあたって、戦争と美術を再考する機運も生まれた。横山大観展(2013 横浜美術館)、藤田嗣治の戦争画展示(2006 年、2015 年 国立近代美術館)、「画家たちと戦争」展(2015年 名古屋市美術館)、などの展覧会や、各種刊行物(「画家たちの戦争」(新潮社2010 年)、「画家と戦争」(別冊太陽2014 年)、NHK テレビの特集番組などを契機として、戦争画の評価をめぐる論議も見られた。日本美術会も検証の時を迎えた。
 2011 年には東日本大震災がおこった。「わたしという個の言葉と表現のモチーフは3.11 以前と以後で同質であってよいか」(辺見庸)という発言もあるなか、『時代の表現』の実践者としての日本美術会と、アンデパンダン展にとって、3..11 の投げかけた問題はおおきかった。原発と科学技術、人の心と社会との信頼関係、ひいては常態化した戦争の現実や格差社会などに対して、美術はどうかかわるのか、――3.11 はより広い視野から原点を見つめなおす機会となった。
シンポジウム・研究活動
 日本美術会では、2000 年以降も、理論部、研究部を中心に、アンデパンダン展でのフォーラム、シンポジウムなどを通じて、「時代の表現」を掘り下げようとしてきた。その主な取り組みを列挙すると―
1 戦争に対する美術について ――
 シンポジウムあるいは講演会などの形で、2001 年「美術家と戦争責任―その今日性を考える」(山口泰二ほか)、「美術は戦争をどう表現するか」、(2004 年3回連続)対談―「イラク戦争から考える」(2005 年、永井潔と北野輝)、「戦争と美術 アンデパンダン展の原点をさぐる」(2016 年講演 荒木國臣・長田謙一)などがあった。「ディックスとノルデ」(2004 年講演 水沢勉)、「ケーテ・コルヴィッツの人と創作」(2006 年講演 佐川美智子)など、戦争下の画家とその表現も研究対象となった。2007 年には「美術運動」特集号「戦争と美術再考」(134 号)を発行している。
2 現代をどう捉え、どう表現するかの問題では――
 「私たちのリアリティー」(2000 年 愛知蒲郡シンポ)、「今をどうとらえるか-創作と理論」(2002 年 静岡網代シンポ)、「創作・社会参加・平和――今、美術を考える」(2007 年 広島シンポ)、「美術の始原―創造の原点とリアリティ」(2010 年 郡山シンポ 講師:上野一郎)などがあり、2001 年には「新世紀の美術運動は何が可能か?」(アートトーク、武居利史ほか)などのテーマによる研究があった。また、「日本の表現主義」(2010 年63 回展 講演:速水豊)もあった。「美術運動」129 号(2000)~ 133 号(2006)では「現代の美術とリアリティー」の特集があった。
3 日本美術会の歴史的検証としては――
 「創立から半世紀に日本美術会は何を成したか?」(2001 年 北野輝ほか)、「検証・日本アンデパンダン展の60年」(2007 年、60 回展 北野輝)、「『クロニクル1947~ 1963アンデパンダンの時代』展をめぐって」(2011 年、講師:池田龍雄、藤井亜紀)があり、また、日本美術会の歴史をつくってきた先人たちを回顧して、井上長三郎、常田健、小野忠重、村山知義、柳瀬正夢、永井潔などに光をあてる取り組みもあった。
4 3.11 と向き合って――
 2012 年65 回展のアート・フォーラム「私たちは3.11とどう向き合うか」では、被災地よりの報告とならんで詩人アーサー・ビナードの講演、「現代を生きるイマジネーション 3.11 以後」(2012 年愛知大府シンポ)、「私の表現- 3.11 後の日本に投げかけられるもの」―「フクシマからの報告および創作」、映画「放射能を浴びた『X年後』」(2013 年 66 回展 アート・フォーラム)などがあった。
 以上のとりくみは、毎年毎年、いろいろな形で、結論の出にくい問いかけを繰り返しているように見えながら、創作者自身が、原点をみつめつつ、それぞれの形で時代と向きあう自らの創作活動を深化させてゆくという、日本美術会ならでは、の意義ある追究であった。
日本アンデパンダン展のあゆみ――「時代の表現 生きる証 」を求めて
 日本アンデパンダン展は、若干の字句の変動はありながら、59 回展以降、「時代の表現 生きる証」を展覧会のテーマとして定着させてきた。
 以下、2000 年(53 回展)以降のアンデパンダン展を概観する。出品者数、出品点数の推移(年表参照)は58 回展までの横ばいまたは漸減傾向を、59 回展で意識的・組織的な努力の結果上向きに盛り返し、60 回記念展と、続く新美術館移行の61 回展を節目として一つのヤマを作った。
〇60 回展(2007 年)は日本アンデパンダン展の「60年を検証する展覧会」と位置づけ、その歴史的意義を意識化しながら、さまざまな工夫がなされた。出品者拡大のよびかけ封筒(通称、「お誘い袋」)」でのよびかけ、「アンデパンダン展リーフレット」の作成(「対策委員会」による)、美大訪問、学生へのビラ配布など、多角的かつ意欲的な取り組みが行われ、以後の取り組みの形を作った。
〇61 回展は国立新美術館でのはじめての開催であり、出品者、出品点数において一つのピークを記録し、作品の質・量ともに出品者の意気込みが顕著に見られる結果を得た。会員の出品率も75%までに回復した(その後また漸減)。一方また、この回は、展示作品をめぐっての館側とのトラブル(材料に生物混入)や、バックパネルの要求実現があったりして、新環境への対応に心を砕く場面があった。美術館側への多くの要求課題が出てきて、「国立新美術館利用団体懇話会」(13 団体) への参加と活動の重要さが浮かびあがった。地域(六本木商店街)との結びつき(宣伝への協力、鑑賞への誘いなど)がはかられたのも特徴であった。
〇63 回展は「六本木アートナイト」の効果で鑑賞者は15,420 人と激増した。
○ 64 回展(2011 年)は3 月11 日の東日本大震災の混乱の中での異例の開催となった。美術館側の節電を理由とした一方的判断により、開催日圧縮(土、日、祝日と最終日のみ)、開館時間短縮(4時まで)となり、会と実行委員会は館との折衝、鑑賞者への緊急対応などに苦心することとなった。予定していた講演会(アートフォーラムⅡ「『クロニクル1947 ~ 1963 アンデパンダンの時代』をめぐって」)は延期し、会場も東京都現代美術館に変えて実施した。
〇第65 回展(2012 年)は東日本大震災のあとを色濃く刻んだ展覧会となった。震災・原発をテーマにした意欲作が質量ともに目立った会場となり、震災救援のチャリティーとしての小品販売、被災地の児童の作品展示コーナーの設置など、画期的で充実した展覧会となった。チャリティーの収益は現地の教育福祉施設に直接届けられた。企画展示「地の種」展には、海外から36 名9 カ国からの出品があり、ほか一般展示にスペインから20名の参加があって、国際的な広がりを見せた。
○第66 回日本アンデパンダン展(2013 年)では、鑑賞者が2 万人を超え、過去最高となった。これは、「アンデパンダンの日」を設け、一日入場無料とし、「いいね!シール」などで、鑑賞者の展覧会へ積極的参加を呼びかける取り組みの効果が大きかった。
〇そのほかに、「初出品者へのメッセージ(手紙)」(58回展より)、「出品者へのメッセージ(ハガキ)」、「会場アンケート」、実行委員会スタッフと鑑賞者がともに会場をめぐる「ギャラリーツアー」(69 回展)など、年を追ってとりくみは多彩になっていった。批評誌「批評と感想」(「展評」)は53 回展(2000 年)から出品者全員に無料配布することとなり、63 回展(2010 年)からはカラー印刷化されて内容も充実した。また、展示については54 回展で「平面一般」コーナーをつくり、60 回では、「ジャンルの壁」を取り払う試みがなされた。
若者へのよびかけ―― 次世代の後継者へ
 2000 年代に入って総会ごとに青年層の獲得と、後継者の育成が叫ばれ、最重点課題とされてきた。2013 年時点での会員平均年齢は70.5 歳となっている。若年層を対象に出品料の切り下げや交流の場をふやすなどの努力はあるが、必ずしも効果をあげ得ていない。2010年「青年・若い層組織対策委員会」を設置して対策を検討した。その中で、青年による「ART CONFUSE 展」を企画・実施したことは画期的なことであった。第2回以降も継続開催されている。民美運営委員会では卒業した生徒を育てようと(若い人を中心に)2005 年頃から「アート・ワークス」展を3 回行った。アンデパンダン展にはインターネット情報などにより参加してくる若い初出品者もいるが、定着せず、依然として決め手がない状態である。他の公募展も同じ傾向があることから、社会現象とみられ、若者の志向をどこでキャッチするか、むずかしい問題である。
注目を浴びる日本美術会の歴史
 近年、戦争・社会・政治と美術の関係性について、歴史的に検証して行こうとする動きが顕著になってきた。それと関わると思われるが、ここ10 年来、美術運動を研究している外国人研究者(ジャスティン氏、アリサ・ヴォルグ氏)や日本の学者・研究者・ジャーナリズムなどが日本美術会の歴史に注目し、資料請求をしてくるケースが目立つようになった。彼らによる「『美術運動』を読む会」が活動をはじめ、東京都現代美術館が企画展示をするなど、会外でのアンデパンダン研究が活発になっている。東京都現代美術館の「クロニクル アンデパンダンの時代1947 ~ 1963」展(2010)は、「読売アンデパンダン」と連結させた企画であったが、注目を浴びた。日本美術会の運動が、ユニークで貴重な歴史を刻んでいることを示している。美術史上の位置とともに、運動組織としてのあり方も注目されている。そのなかで、2008 年に出版された「あのころのこと、今のこと」(永井潔著)は、文献として貴重なものとなった。
その他の取り組み
その他の部面で2001 年以降をみると、―
 写生会は韓国・公州(2001 年)で最初に実施したほか、毎年国内で行い、事業部としての収益も上げている。資料部は60 回展からアンデパンダン展出品の全作品の写真撮影とCD 化保存をはじめ、ついで、美術運動、会報、アンデパンダン展出品目録などの文献をデジタル保存をすすめ、なおも進行中である。膨大な資料をコンパクトに永久保存し、整理して、学習・研究活動などに利用しやすくなってきたことは、大きな前進であった。
 2011 年、第42 回総会において、20 年ぶりに趣旨改
定をおこなった。骨格に変動はないが、よりわかりやす
く表現を整理しながら、新たな時代情勢を反映する形に
改めるものであった。
 他団体との連携において、目だった活動としては、9条美術の会との連携、国立新美術館利用団体懇話会への参加(2010 年)と活動があった。特筆すべきは、「9 条美術の会」の活動である。憲法改悪への動きが急ピッチで進められるなか、2004 年6 月、「9 条の会」(大江健三郎ほか9 人の著名人の呼びかけによる)が発足して大きな運動に発展した。憲法9 条を守る、の一点での結集を呼びかけたこの「9条の会」アピールに賛同する国民の声は全国各地、各分野、領域に急速にひろがり、2011 年の時点で7500 の賛同団体がつくられるまでになった。そのなかで「9条美術の会」(呼びかけ人 大野五郎、岡部昭、川上十郎、窪島誠一郎、佐藤忠良、鳥居敏文、西常雄、野見山曉治、水尾比呂志2005 年6 月)が発足した。日本美術会はこれに全面的に協力し、他会派の人たちとともに運動の中心的存在かつ推進力となっている。この会主催の「9 条美術展」は2017 年で第6回となり、美術界における平和運動の発信点として大きな役割をになっている。2015 年の「『戦争法』反対の総がかり行動」では、全国7000 人の美術家に結集をよびかけ、1000 名余に上る賛同者を得るなどの成果をあげた。 
70 年の足跡の上に
 2016 年4 月には「日本美術会創立70 周年、民美創設50 周年記念祝賀会」をおこなった。2017 年には第70 回記念日本アンデパンダン展を迎える。20 年ぶりとなる記念誌(画集)発行をはじめ、特別展示・各種展覧会行事は、この20 年の歴史的成果の再確認と、新たな飛躍のステップ作りとしてとり組まれた。 (武田昭一)