近年の日本アンデパンダン展と日本美術会員への期待

上野一郎

近年の日本アンデパンダン展について
 先ず、発足から70 年間に亘り、美術の民主的な発展とその新しい価値の創造を目的とし、真に人間的な美術を生み出す努力を継続し、平和を願って運動してきた会の活動は客観的にも大いに評価できると思う。その間色々な困難や課題をのり越えてきた、この継続、粘り強さが人間的にも運動的にも肝要である。組織は一旦絶えると復活には大変な努力を要するからである。その意味で、会の趣旨沿った運動の拠点として、日本美術会は讃えられる。そして会の運営やアンデパンダン展の組織の役員の努力には頭が下がる。芸術の目標も人間生活の進歩と幸福である。その観点で社会とその美術をより良いものに進める、民主的な組織の大切さがこの会には存続されている。
 一般の公募展と較べて日本アンデパンダン展は確かに異なった雰囲気である。毎年《時代の表現−−生きる証》が着実に表されている。そこには個人的生活感だけでなく、今日の社会、政治に関心を持つことが当然なこととして表れている。こうしたテーマを他の美術展が過少視して、主として個人の域内に留まった感性やただ技術的展開に終始するのと対照的に、人間として社会的関心は当たり前のことであり、その感性がアンデパンダン展に満ち溢れて良い。これは同展での標語や方式がいかに大切であるかを示し、それが日本美術会の精神や性格にも基づいていることを改めて実感する。そこでは、誠実に現実認識と表現という芸術本来の機能が果たされている。
 地方在住であまり手伝えず、また美術家でもない私は、組織運営とそこに集まる会員や出品者に応援団のような気持ちで激励して、その展評ではほとんど批判をしていない。むしろ可能性を伸してほしい芽を拾って、取り上げてきた。無論アンデパンダン展の性質上、技術や質が高くない出品がある。その作者はそれを自覚しながら、自分の作品を受け入れてくれるこの展覧会で、優れた制作に接して勉強する。多様な美術、技法、感性、表現を見て、足が地に着いた発表に学ぶことは多い。彼らの作品は、表現が未熟でも実感がこもっている。プロの作家でもこれらから学ぶところもあろう。テクニックよりも気持ちが伝わる画面群や何とか感情・感慨を伝えようとする表現が、てらわない国民的な感性を尊重するのがアンデパンダン展らしいと思った。また無論プロ的な作家の秀作があちこちで存在感を見せていた。それらは長い修練の到達であり、アンデパンダン展をリードしている。アマチュアの魅力もあるが、専門家がなければ美術の進歩もない。専門家の制作と活動には敬意を表するとともに、いっそう競い合ってほしい。要するにアンデパンダン展は浮ついていない美術的大フォーラムだと思う。
テーマと表現
 アンデパンダン展では生命をテーマにするものも多く、それぞれ愛情が感じられる。生命(ライフ)は生活でもあり、生活の情景描写にもつながる。しかし生活とは、あまりに当たり前なテーマともいえるから、生活情景の描写を批評に取り上げるときは、特にその理由を挙げるべきだろうが、ことさら理由を省いても、見て感銘を受けるから説明しなくて良いと思われる作品もあった。展示された大小の作品からは、それぞれの作者のこめられた思いがひしひしと伝わってきた。でも肝要なのは、今日生きる人が制作すれば何らかの意味で必ず「時代の表現、生きる証」となるから、問題はそれがどれほどリアルで美術的で、どのような切り口でどれほど正鵠を得て人々に訴えたり共感を与えるかであろう。この点で展評を書くにあたって、特に批評したい作品を見出すのにやや手間がかかった。美術を専門的に手がける作家の作品の水準は当然高く、批評は感心してほめることになる。でも一般に会員の出品には、日本美術会の趣旨を念頭においた気合いをもうすこし求めたい気持ちがいつもあった。
 会場で造形的または美術的に魅了する作品は必ずしも多くはないが、反原発や平和希求や沖縄基地反対などの意を表明するかなりの作品が、従来の美術形式では満足できず新たな表現を取ろうとしている。だからインスタレーションのコーナーには、この意欲の展示が集まってきている。そして工夫ある作品も増えてきていると思う。しかし社会的テーマにはインスタレーションだけが向いているわけでもないだろう。インスタレーションに関しては、応援したい気持ちが湧くが、パフォーマンスで補うにしてもプレゼンテーションがやや安易に思えた。いくつものインスタレーションは、絵画などよりも広いスペースを占めるが、表現が直裁過ぎてアートとしての工夫が足りないと思われた。
 美術は、内容と形式から評価される。造形的・技術的に卓越した作品は、他の美術展などあちこちにあるが、内容からの訴えの感度が乏しいものは、美術的にもそれほど優れていないと言えるのではないだろうか?とはいえ技術の修練の成果は形象となるから、技術を磨くことはより良い形象を作り出すのに肝心であることは、誰にでも分かっていることだ。真摯な制作には、技術の向上が言わずもがな含まれる。だからアンデパンダン展の批評では、技術の上達を目指す必要をことさら指摘はしないが、やはり表現技術のレベルアップを望みたい出品も多い。しかし高い技術の作品がただちに美術形象の価値が高いわけではない。美術形象はやはり内容が主導して出来上がるのが良い。美術の内容には、表層的な内容から奥の内容までレベルがある。例えばゴッホの描いた靴は、くたびれた靴の形象だが、それを超えた深い感銘を与える。芸術は仮象を用いて奥深い真実を表し出せる。傑作と言われる美術にあるものは、人間的な真実を顕しているとも言われ、偽りを剥いだ真実を開示し、心に触れさせるのは質の高い美術の性質だ。価値ある美術とは、表面的な形を超えて核心的な意味内容として真実を、感性を揺るがすように把握させる形式を持つものだ。そうした美術は、特に意義を感じさる。我々が求める美術は、このような深い真実や意義を伝える形象だ。美術はこうした伝達、メッセージ性を持っている。
日本美術会員への期待
 ともあれ私の展評は、毎年何かねぎらうような文しか書いていないと思う。そこで2016 年のアンデパンダン展の北野輝氏の評を見て、同感することを記したい。北野氏は同展の歴史を要点的に振り返り、特に第30 回展について匠秀夫氏の行った指摘、「30 年の年輪の厚みを祝賀してはいられない情況の方が目につく」、すなわちアマチュアリズム、社会的テーマ性とリアリズムの主張が単なる写生的な描写画にとどまるか通俗的な概念主義に陥っているとの、痛烈な批判である。そして北野氏は、「それから40 年経った現行のアンデパンダン展について、私たちはこのような批判を克服できているか」を点検する必要があると述べている。
 私は昨年理論部の研究会で、「現代日本の課題に応える美術の創造」と題した発表をした。これはやや要約されて、『美術運動』143 号にも掲載された。この題名の重大さに対して、私の見解や提案は充分に対応しているとは言えないが、若干の視点を示した。その幾つかをあらためて記し、コメントを付加しておきたい。
 今日、美術には技術的、領域的、性質的な多様化が見られ、これは従来の表現方法では表しきれないテーマや感性への対処とも見られる。確かに量的には美術分野は拡大した。しかし美術の質的向上は自動的ではなく、専門的で理想を目指した人の活動が必要だ。美術の専門家とは職業ではなく、その専門的探求者のことであり、そうした人が向上をリードすることが大切だ。そして多様を尊重しながら多元的に進歩を探求する方向が、自由な展開で民主的な探求だと思う。自由と言ったが、実際には政治的や風紀的に有害とされるものには規制がかけられる。また美術館などでは制度的な規制もある。だから自由とは戦い取らねばならない。
 美術は自覚していなくても、純粋美術も含めて何らかの目的に何らかの仕方で良きにつけ悪しきにつけ役立っている。だから問題は、何のためか、何に役立つのか、誰のためかということだ。一般的に言えることは、特定の目的のための美術も、それが人間の普遍的な目的につながっている時には、高い評価を得て、優れた芸術性があるとされる。だから我々が目指したいのは、芸術外の目的に思えても、社会的・人間的な目的があるわけだから、その目的を芸術的に消化すること。そのためには、目的に対し想像力、創造力を十分に発揮させたいし、自由な表現の範囲を広く見渡したい。過去のテーマ美術の表現は、我々に参考になるし今後も参考になり続けるだろう。そして喫緊な日本の危機には、戦争の悲惨さ、マイナス/否定面を表して、それ否定する気持ち、いわば禍を転じてプラスに導く形象は当然ある。しかし今日の若者などには少し異なった表現も必要だろう。各地で平和美術展があり様々な作品が寄せられ、ここには穏やかな作品や明るく楽しい作品も多くある。楽しいのはとても良い。芸術や美術には、楽しさの魅力が必要だ。すべての美術にこの性格を求めるのではないが、快楽は芸術の一の要因である。現代アートには、明るく楽しく気楽な作品もある。また社会的関心をテーマにしたものがかなり多くある。現代アートは資本主義の文化に包摂され、取り込まれているのは確かだが、我々は現在に生きる者として、同じく現代に生きているアーティストたちの特に現代美術と言われるもの評価の意見交換や議論は大切だ。
現在の最重要な課題
 日本美術会のメンバーの意識すべき現在の最重要な課題とは、危機に曝されている反戦平和であり、戦争法案反対・廃止、憲法改悪反対が喫緊な課題だ。政府がそれらの危険を懸命に隠蔽している今では、これが差し迫った課題だ。日本美術会以外で、「反戦 来るべき戦争に 抗うために」というような展覧会もある。日本美術会には、今はいろいろなテーマに総花的に対応するのでは無く、喫緊のテーマに意識を集中的した制作を望みたい。今日の政府の虚偽を告発する美術は、社会的に求められるだけでなく、美術的にも新しい価値の創造につながる有力な道ではないかと思う。この告発の制作には最も意欲が高まる筈だと思う。難しいけれどやりがいのある仕事だと思う。
 新しい価値とは創り上げていくものだから、社会的にも人間的にも美術的にも前進したレベルであり、理想であることは確かだ。その開拓へは、真実を顕し自由な表現をするのが美術だから、今特に叶っているのは虚偽を暴く美術だと思う。しかしそうした表現の創造はそう容易いものではないだろう。美術はメッセージを伝達するが、美術は政治でもないし裁判でもないから、告発といっても直接的でないことの方が多い。その分、美術的インパクト、間接的でも波及性が、抽象による広い伝達があり、また造形的な楽しさが増す。
課題への対処の仕方と機動性
 私は、次にあげて見る例にヒントみたいなものを感じる。
・美術には目的があり、メッセージの伝達機能もあるから、プロパガンダ美術も美術の一形態だ。だから今日の危機をあぶり出しにする美術には、プロパガンダ美術があっても良いだろう。今日の社会にあった新しい形でのプロパガンダ美術が求められる。しかし例えかつてのプロパガンダ美術に倣ったものも、今はレトロにも人気があるから受けるかもしれない。ウケルだけでなく、そこから新しい表現が生まれるかも知れない。主題主義的でも、その主題を超えて広がる内容と形式に至れば心に響くだろう。・我々が目指す美術的な新しい価値の創造には、未来を担う若い世代を意識して探求するのが一つの手がかりとなるのではないだろうか?現代の若者たちの感性に対しては、例えば意気がるより肩の力を抜いたアヴァンギャルドがあっても良いのではないか。格好良いとか、気持ちよく心に響く表現は、若者を惹きつける。例えば今では年配にも愛されているジョン・レノンの歌「イマジン」を引き合いに出すと、そのメロディーはポピュラーで快い調べだが、その歌詞も人々の心を打つようだ。そこでは、「Imagine 想像せよ」と言っている理想とは裏腹に、美しさの中に現実(地獄、殺し、宗教、孤独、強欲...)が糾弾されていると思う。美しさの中に対比的に透けて出る逆イメージ、こんな表現は美術なら、どうなるのだろうか?イマジンとは、想像力を働かせよと言う意味だから、プラスの表現の中にマイナス面を暴きだす形象だ。またそのひとつには、相手の主張、嘘を逆手にとって、安全というものの裏を開き示す告発の美術もあるのではないか?あるいは、二重イメージも参考になるのではないか?いろいろな見立ての美術もある。...・新たな探求には、あらゆる素材、技術の可能性に目を向けるべきだ。その一つには、コラボレーションもある。我々は美術制作は一人での仕事と思いがちだが、共同しての開発はどうか?
 さて作品は、伝達されるために発表されなければならない。しかし政治的告発とか新しい表現には、美術館などでは発表に制約が掛かることがある。かといって、街中や野外展示も簡単ではない。我々には、これら発表の自由に対する困難を乗り越えていくことも必要だ。そして今挙げたような緊急の課題への制作発表には、悠長に来年のアンデパンダン展などを待つ暇は無く、課題に特化した発表会がなるべく早く出来ると良いと思う。そしてこれが新しい価値の創造に向けてのとりあえずの突破口ではないかと思う。そのような機動性が求められる。