創作と会活動の高揚期

1972 年~ 1988 年

 「あゆみ 4 高揚にむかって」では会創立以来、政治、社会、美術・文化状況の激動の時代のなかで、多くの困難を経験しながらも、会活動と創作がようやく好転し始めた。1967 年には拠点となる会センターと後継者育成のための民主主義美術研究所を設立。1970 年には「会の趣旨」を時代にふさわしい記述に改正した。
 「高度成長期」の社会、文化、美術状況
 会がようやく高揚にむかった。それは1964 年東京オリンピック、1970 年大阪万博(人類の調和と発展がメインテーマ)などが象徴するように、高度成長の時代であった。一方、公害問題の多発、ベトナム戦争、石油ショックとインフレ、失業、学園闘争などがあり騒然としつつも青年、学生を中心に進歩と希望の活力と運動が生まれていた。
 そうした中で、東京、大阪、京都などをはじめとした「革新メガロポリス」が誕生し、社会変革の大きなうねりを感じさせた。
 街中ではフォークソング、ニューミュージック、反戦歌が流れていた。
 美術界でも高度成長の流れに乗って、公私立の美術館が続々と開館し、海外のオークションで数十億円の作品を日本人が購入したと話題となっていた。様々な大型美術展が日本中で開催され、新しいコンクール展も次々発足し、美術出版も盛況であった。市中の貸し画廊が増え、盛んに個展が開かれるようになった。また、カルチャーブームなど美術の大衆化がいっそう進んだ。
 美術はそれまでの枠や概念を大きく越えて、ポップ・アート、ミニマル・アート、コンセプチュアル・アート、パフォーマンス、コンピュータ・アートなど主にアメリカを中心にした「現代美術」が流入し、展覧会やメディアでの扱いも多くなった。80 年代にはインスタレーション、サブカルチャーとの融合などが加わり、ボーダレスとも言われた。それは情報化社会が拡大し、繁栄・進歩の陰で人間疎外、空洞化が顕著になった時代でもあった。従来の美術と新しく登場した美術思潮との混沌とした様は、公募展、コンクール展、現代美術というような「住み分け」とでもいえるような状況にさえなった。(50 周年記念誌参照)
1) 新時代の中で―活力と葛藤―70 年代 
 1967 年に出来た日本美術会のセンターと付属研究所「民美」は会活動と創作活動に大きな転機をもたらした。「民美」の一期入所者は52 名。その倍の応募者があり、ほとんどが20 才代で働きながら学ぶ、夜学生であった。民美を卒業した若い人達が数年後にはアンデパンダン展で作家として注目され、次々と日本美術会に入会した。その後、会活動の中心的な担い手となっていった。
 また、その前後から学生運動に関わった美術大学生が出品、入会し共に新鮮な力として大きな活力を生み出した。こうした若い作家と、これまで会の中核として会を牽引してきた創立以来の作家群や中堅とも言える作家達が互いに影響しあい、ぶつかり合い、方向を模索し、多様な作風の作品が増加するなど創作熱が大いに高まった。
 またこの時期、全国各地で、アンデパンダン展、平和展が新しく発足し、青森、栃木、岐阜、群馬、長野、石川、大阪、三重、岡山、高知、福岡など地方の会員がそれぞれの地域で美術運動の中心として活躍した。東京のアンデパンダン展でも力強い作品で注目された。また自由美術展や他の公募展に所属する作家も多く、その多彩で鋭敏な作品は従来のリアリズム絵画とは異なり、アンデパンダン展に新鮮な作風で影響を与えた。
 出品者数でも第25 回展は711 名と過去最高になった。20 回展425 名、22 回展506 名 24 回展605 名(いずれも写真作家除く)と比較し、急激に増加したことがわかる。
 この頃から日本美術会彫刻展、日美日本画展も始まり、各地で版画展が開かれた。78 年からは夏季写生講習会が始まり、以後毎年開催。好評で参加者も多く運動や会財政の力にもなった。
 創作・理論・運動
 そうした会とアンデパンダン展の高揚の時期は時代の大きな変動期でもあり、さまざまな美術思潮や実験、刺激的作品があふれ、混沌とした様相であったことは先にも述べたが、その中で会はどう運動を進め、創作活動を発展させるか、70 年代はその大いなる模索と葛藤の時期でもあった。
 総会でのたびたびの課題提起や論議になったのも創作論、運動論であり、理論の重要であった。それは新しい美術状況と若い多くの作家が増えたことの必然的な結果であった。
 「われわれの創作の状況について『着実な前進』が言われながらも、同時に真に民主的な美術としての高い芸術性とその多様性という点で、まだまだ満足いく境地まで辿りえていないということも事実であり、この現状に対して不満感や焦燥感がある。ある人は題材やテーマに関わる内容の『民主性』を問題にし、ある人は『技術』の未熟さを、ある人は作家の創作を動機づけ導く内発性や作家的良心や自覚を問題にする」(1973年美術運動96)、
 「美術運動や創作上の将来を展望する理論強化、長期的計画が必要である」「美術そのものの価値や社会との関わりが拡張、融合、変動している『現代アート』や商業主義に晒されている今日の美術界の批判的評論など深い分析・研究が必要」(総会議案)「創作の多様化をめぐって」(第25 回アンデパンダン展座談会1972 年)では
○多様化はすでに成されている。裾野の広がりがそれを示している。ただ裾野にふさわしい高さが不足している。
○それなりに多様だが類型的。労働者・農民・漁民を描いただけ、というのが多い。「民主的な立場」を示しただけでそれ以上のものではない。
○安易な模範解答を出して、冒険や実験というものをセーブしてしまっている。
○多様で面白くなっていると評価しているが再考を要する。もっとこっぴどくやる必要がある。
 やや長い引用となったが、真剣な熱い、深まった問題意識があったことが伺える。
 「美術運動」誌では若手作家「若者の意欲―創作体験・・」、あるいは若手批評家の座談会「批評の問題を巡って」など創作と理論双方にわたり特集を組んだ。
 また優れた作家のアトリエ訪問特集を連載した。(中谷泰、井上長三郎、高田博厚、糸園和三郎、鳥居敏文、吉田利次、岡本博など)
 リアリズム論も多く、「リアリズムとモダニズム 対立と交錯」など様々な角度から論じられた。「美術の民族性・伝統をどう発展させ、現代の表現にするか」も大きなテーマとされ、日本の民衆画、転形期の運慶の連載(林文雄)、日本のリアリズムなど掲載された。
「現代美術」について
 60 年代より次々と入ってきた新しい美術思潮・作品はアメリカからのものが多く、ベトナム戦争などへの政治的な反発もあり、これらをアメリカの政策的なものとして「アメリカニズム」、「アメリカの文化侵略」と対立的にとらえる意識も一部にあり、あるいはとまどいが少なからずあった。
 80 年代以降、文化・美術の問題として見直し、徐々に変わっていった。これらの美術を「民主的・民族的美術の創造」「リアリズムの美術」との対比で批判的に見ていたといえるだろう。当時も引き続き行っていた東欧社会主義国との交流や「美術運動」誌の海外作家の特集を見てもそのあたりの実情がうかがえるが、この時期の美術状況や日本美術会の対応は今後の研究課題である。
「美術運動」誌より海外作家の紹介など
 「50 年代のアメリカ美術はどう「革命」したか」「社会主義諸国の現代美術」「いわゆる社会参加の芸術―ヨーロッパ美術」「ドイツ リアリズム」。ケーテ・コルヴイッツ、シケイロス、ベンシャ―ン、チャールズ・ホワイト、グツトーウゾ、ピカソなど。「虐殺」「ソンミ」「ベトナム上空の自由の女神」などを激しいタッチで描いた東独のウイル・シッテ。
 この時期の特徴として「アンデパンダン展はその表現形式だけでなく、質においても多くの成果を残した」「この2 年間の会員の個展、グループ展、地方展はかってない数(約280)に達し、創造力の盛り上がりを強く感じさせてきた」と1979 年総会報告で述べている。
2) 創作の前進・会運営の安定と困難―80 年代
 アンデパンダン展の出品者数は25 回展のピーク以降、少しずつ減少したが、その作品内容は青年出品者層が着実に成長し、作品にも追及の深まりがみられ変わっていく過程でもあった。また民美研究所では7 期の入所者31 名、8 期は18 名と漸減傾向が続き、新講座開講など対策が必要になっていた。
民主的立場から芸術性をいかに獲得するか
 「会員の創造活動は上昇傾向にあるが、創造作品の水準は混然とし、現実を見つめる態度と自己の問題意識に応じた表現形式、造形方法への追及が弱い。・・模索に間隙がみられる」と81 年委員会報告で述べているが、これは創作の前進・向上の中でのいわば「足ぶみ」であろう。
 「新時代に相応しい今日的課題を探る時期にある。民主主義という概念は主として運動論上の規定が内容規定を含むものか」など問いかけも続いており、作家それぞれが創作を深めるために苦闘していた。
 実際の創作では、1985 年第38 回アンデパンダン展などに見られるように、70 年代初頭に出品を始めた青年たちが注目される作家として多数登場し、その作風も60 年代とは大きく変わってきている。
 展覧会アンケートには「新しい表現への意欲を感じる作品が多い」「変化の兆しが見られる」とある。
 39 回日本アンデパンダン展で「現代美術を論じる―
芸術家の意欲と衝動」と題し、松谷彊の講演と批評家7 人による座談会が行われた。そから「美術運動」誌でもデヴィット・ナッシュ、クリストなどが紹介されてきている。
 一方、創作の安定とも見える状態の中でさまざまな会運営の停滞もいわれてきた。それはアンデパンダン展や日本美術会展の出品率や日美活動への会員参加の低調さにあり、慢性的な財政危機・研究所運営上の困難などとともに問題とされた。会員自身の自覚・存在理由が問われてもいた。
 そうしたアンデパンダン展や民美の変化と消長のなかで、81 年、常任委員長を新設し常任委員会を執行機関と位置づけ、それまでの分散的傾向ともいわれた会運営の問題点の改善と克服に努めた。
35 回アンデパンダン展 記念特陳「50 年代の軌跡」
 この特陳に会は大きな力を注ぎ、全国からそれまでの評価のある作家の代表作を数多く集めた。50 年代は混乱と対立の時代でもあったが、展示された85 点の作品にはいずれも社会の不安感や不満、抵抗を表すなど時代精神の体現ともいえる力作であり、美術の持つ力を感じさせた。会創立の意義とアンデパンダン展の役割などこれまでの会の運動や歴史を改めて見直すと同時に、確信も得、新たな展望を見出すものとなった。
 その後のアンデパンダン展出品者数の変移は38 回展530 名、39 回展488 名と減少したが、40 回展575 名、41 回展582 名と盛り返している。
 このような会とアンデパンダン展のあゆみは「いかなる権威にも屈従せず、虚飾を排し、作家の独立、自由・自主の創造精神を何よりも貴ぶ」とする初心を時代に活かそうとしたものである。この70 年代、80 年代の残された作品を振り返るとき、社会や人間を深く見つめ、時代の風潮や流行などに抗いながら、実直な作品が数多く創作されてきた。次の時代に向かって、緩やかだが、その足跡は確かである。    (十滝歌喜・稲井田勇二)