「民主主義美術研究所」―民美の50 年史

日本美術会創立と美術研究所の設立

 日本美術会創立は戦後すぐの1946 年、激動的で尚多くの困難な問題を抱えていました。創立後20 年の1966 年臨時総会の委員会報告には「戦後社会と戦後美術の含む新しい諸矛盾や諸問題が既に現れてはいたが、まだ多分に萌芽的であり、それぞれの本質は充分あきらかになってはいなかった。しかしその後20 年の歴史の進行は、それらの新しい諸矛盾を発展させ…戦後美術状況の本質を次第に具現化して行った」とあるように、戦後の混沌はそのまま新しい矛盾の激化となっていました。そして日本美術会の美術研究所設立はすでにそのころ会の目標になっていました。’49 年2 月会報「(新宿の)日本美術会館建設に着手」の文中に「2階建とし、研究所・事務所・会議室…」とあり、完成に至らなかった会館建設運動でしたが、研究所を作る意図は創立後まもなくありました。次に研究所設置の動きが見える資料は、’65 年「日本美術会小品展へのお誘い」で、新橋の平労会館建設運動時の資金作りの一環でした。そのチラシには「小品展の売り上げは設立(会館)と拡充…日本美術会の美術教室の設営基金…研究所です」となっています。建設運動は展覧会・作品販売・寄付などいろいろな方法で行われ、お願い文の中には「美術愛好家の共同集会場、相互教育の場所、勤労美術家・青年美術家の育成、各種美術講習会」とあり美術研究所の開設も目的にしています。この建設運動を進めていく中で、より具体的に「美術研究所・民美」の姿が形造られていったと考えられます。美術研究所の設立は、日本美術会が当初よりかかげている「美術の自由で民主的な発展とその新しい価値の創造」のための相互教育と、新しい美術家の養成の場の確保でした。
民美の理念とその実現
 日美センターは1966 年5 月新橋に完成しました。その直前の2 月総会で「研究所部―研究所の指導・運営・管理を研究所長を中心に日美の活動と結びつけて推進する」とされ、’66 年10 月会報に「研究所運営委員会報告―当初10 月開講を目標…4 月迄延期する、延期の間短期間の講座を種々企画」と記されて、働く人の油絵講習会・土曜講座・木版・漫画・デザイン・日本画などの講座が計画された。これらの経験から、会員の積極的な支持と知人への勧誘方針やカリキュラムの作成、美術史や技法論、創作論など授業の中身についても話し合われ、研究所部が研究所運営委員会となり体制も整えられていきます。’66 年7 月「全会員への緊急な訴え、(第5 回委員会報告)」で「カンパのお願い…美術センターにおいて…研究所活動の計画が進められ…研究所の運営が軌道にのるに従い、会財政への若干の潤いが予想されるが、それには相当の日時を要する」と見え、慎重な計画を練っていた形跡があります。募集前には定員に満たない可能性も考えられ、順調なすべり出しにはならないとの予測もあったようです。さらに’67 年3 月会報には「4 月開講される研究所について…研究所の現況…競争率2.5 倍の105 名(の応募)」とあり比率から当初は40 名の定員を目ざしていたことがわかります。
 ’66 年7 月臨時総会で研究所の名称は「日本美術会附属 日本民主主義美術研究所」とし、初代所長に永井潔を選出した。この臨時総会の資料には、日本美術会センターの性格(案)があり、その中に民美の活動・機関・財政・教育方針などの記載がある。「目的、日本美術の民主主義的発展をはかるために必要な研究及び教育を行う。活動①日本美術会会員の相互教育、共同研究 ②新しい美術家を養成教育し、民主主義美術運動の次代の担い手を創る ③美術教育の民主主義的革新をめざす研究と実施」とあり「機関は所長の他運営委員会、講師団を組織する、財政については日本美術会より予算の配分を受け…受講料の他研究所活動による収入は日常の運営費用…余剰があれば日美財政に納入する…」となっています。
 教育方針では緻密な内容の記載がなされている。以下大意をまとめてみました。「如何に描くか」だけの技術主義ではなく、「何が故に、何のために描くか」の美術の最も根本的な問いを常に追求し…「何を、如何に」描くかを研究し教育する。「政治主義・芸術主義・本能主義」など技術軽視を排し、基礎知識の本格的な修得を重視した教育…美術教育と美術創造との相互関係を認識し、つめこみやおしつけの画一主義的教育ではなく、個性・自発性・創意性を引き出し高める教育を行う。無責任な自由放任主義、なげやりな非系統的指導を排し…」とあり、丁寧な指導を目ざしていたことがわかります。また「…当研究所においては、教育の過程は即ち研究の過程であり、又創造の過程である。教える者と学ぶ者は互いの独自の役割を厳格に追及しつつ、相互の協力によって民主主義的美術教育を研究し創造し建設していく…」との姿勢を示しています。さらに「…以上のようにわが研究所の理想はきわめて高いものであるが、その理想は日本の民主主義的運動の進展の実状に合わせて、漸進的実際的に達成されるものである。高い理想と科学的現実主義的方法の結合によって、わが研究所は一歩一歩確実に発展し、そして教育方針そのものも発展し精密化されるであろう」と結んでいます。美術教育のあるべき考え方と、個々人の創意性をひきだす熱意を持った指導を示しており、現在に於いても精彩を放っていると思います。このような理想とねばり強い指導を目ざした初期の民美は、教える側と教わる側共に熱気をはらんだ美術創造、研究の場になっていたようです。「教課実施要領試案」を見ると、通信科を設け、テキストを作り通信指導をすることも考えていた。研究生募集にあたっては、民主団体諸組織からの責任ある推薦などがあれば一層よい…ともあり、地方の民主的美術運動やサークル、組織などの押し上げも望んでいて、60 年代の社会運動の盛り上がりが民美創設の背景にあった様子も感じられます。
良好なスタートとその後の困難期
 1967 年4月民美本科1期生を迎えます。1期生は会の当初の予測をはるかに越えた応募となり、急遽定員を40名から50名に増員します(実際は52名)。’68 年1月会報には「研究所第1回文化祭開催…生徒は熱心で要望も強く、毎月のように話し合いをもっていた」、同年7月会報「卒業制作はアンデパンダン展に展示する」とあり、現在の民美祭・卒制展示は1期から始まっています。私が2期生の時、研究生との話し合いで永井先生に「民美とはどのような美術研究所ですか」との問いに、先生は「大学や専門学校ではない、ましてカルチャーセンターでも大学予備校でもなく、個人の私塾でもない、日本の民主主義美術の可能性を研究し創造する、新しい美術研究所」との答えでした。永井先生を始め、多くの講師が熱心に指導して下さり、美術上の様々な名言を与えていただき、実技指導の他自治会では先生方のアトリエ訪問を頻繁に企画し、作家の制作現場や創造する態度、美術そのものについて学ぶことができ、卒業後の方向を定めることになりました。カリキュラムとその課題についてのレジュメもしっかりしたもので、卒業してからも読み返して実際の制作にも役立った気がしています。民美での授業は、常に美術の技術も理念も感情も、美術史や美学哲学も含めて「車の車輪のように相補完し合い高みに至る」といった総合的な観点を大切にし、先生方は古今東西の美術の魅力を語って下さいました。
 ’71 年総会では4年間の総括として ①基本方針は妥当である ②教育方針と個々の作品(才能)にあらわれた結果を混同せず…芸術の内容は人から与えられず、個々に発展していくもの、芸術教育の限界を考えなくてはならない ④講師間の相互連携と統一性が必要 ⑦経営は赤字ではなく一応順調 ⑧講義レジュメを作り各地に売る…などと報告されています
 民美の応募者数が定員より多いのは4期生まででしょうか、4期生からは定員を45 名としますが、’75 年4月入所の5 期生は44 名となっています。’75 年会報で「研究所開所以来の保留金を使い果たした…」とあり、長期にわたる民美の困難期が始まります。’81 年4 月会報では「8 期生の募集…2 月段階で6 名しかいない…7 期生募集の時から徴候があった…抜本的な対策を取らなければ…」とあって「非常事態」の文言も見えます、また「8期生を迎えて…いちじるしい減少…平均年齢はそんなに高くないがこの世代の後がこない…美大やデザイン学校の増設もあろう、日美会員の紹介が少ない…運営委員会と講師団の統一をはかる」としています。’82 年会報「研究所問題、所長より報告…会員紹介入所者の著しい低下、年齢の高齢化…研究所運営は会の存亡にかかわる、現在会の中心的な実務活動は卒業生が受け持つ…」とし危機感を持ちつつ、会の次代の担い手を生み出している現実をも訴えており、民美の名称も「日本美術会附属研究所」と簡略なものに改めています。こういった民美に生徒が集まらない現象の原因はどこにあり、また有効な打開策はどうだったのか、運営委員会でも様々論議はされたと思いますが、20 年近く続く「困難期」は今にも通じる多くの教訓を含んでいると思います。1期生から5 期生までの平均年齢は23~ 24 歳で、6 期生26 歳36 名、7 期生28 歳30 名、’81 年の8 期生30 歳16 名となり、10 期生は7 名となります。’84 年6 月会報では「10 期生募集7 名の入所で運営困難、合宿して今後の問題を協議する」とあります。
 ’60 年代に石炭から石油にエネルギー変換されたが、’70 年代に度々くり返された石油危機によって、実質経済成長率は’76 年まで大巾に下り、企業は危機対策として「減量経営」にのりだします。人員削減、パート労働そして派遣労働もこの頃から始まり、さらに産業ロボットやOAといわれるコンピューター化で産業構造は激変していき、中央集中の動きは矛盾の激化を生み、地方活性の声も大きくなります。1980 年代になると「規制緩和への推進方策」「民活」といわれる公社の民営化も進められ、一方で「バブル経済」と「財テク」の動きは社会に混乱を生じさせます。’75 年から15 年間の社会変化は激烈で過労死やサービス残業の言葉もこのころ生まれ、実質的労働強化で労働環境は悪化の一途をたどります。一方ではフライドチキンやマクドナルドなどの外食産業も増大し、’83 年浦安に東京ディズニーランドが開業し、続々とテーマパークもつくられて文化、娯楽の姿も変貌します。大学やその学部も増え、デザインなど専門校も多くなり、駅前には大手企業のカルチャーセンターもでき、若者の価値観や文化環境が変化していきます。
 1983 年1 月民美設立15 周年記念祝賀会開催、同窓会発足。同年の総会報告「①研究所運営のための財政確立 ②研究所は運動の新たな担い手の育成、附属美術教育機関 ③今までの経験と成果にたって美術教育プランの再編成 ④研究生の募集も毎年」とする対策を打ち出しています。しかし ’86 年会報「研究所から訴え…研究生が集まらない、広告宣伝もしているが…会員に研究生を推薦し送ってほしい」とあり、投稿では「会の取り組みが弱い…労働条件が変わり週5 日は来られない…卒業しても特典がなく…抜本的に検討し直さないと」との声もありました。’86 年11 期生を募集するも集まらず、10 期生でこの制度を終了します。’87 年からABCの夜間コース制を取り運営するも、生徒は思うように集まらない状態が続きました。
 1985 年を基準にして総務省統計局の人口構成表を見ると、団塊世代は30 代後半にはいります。会社では中間管理職にもなっていよう、また家族があれば団塊ジュニアは10 歳~ 18 歳ほどで育ち盛り、資金も必要な時期で親にも余暇の時間はなかったのではないかと思います。民美の困難期からその後の状況を見ると、団塊世代を中心にした人々の生活状態が民美の伸長に深く係っていると読むことができます。総務省の統計をさらに見ると1995 年、団塊世代は40 歳代後半になり、団塊ジュニアは20 歳代にはいって成人しています。
昼コースの新設
 ’97 年の民美生徒数は80 名となっており、新入所者の平均年齢は46.7 歳です。’99 年の生徒数は75 名、新入所者の平均年齢は53.9 歳となり、ちょうど団塊世代と重なります。もちろん’87 年以後の様々な打開策を試みた結果ですが、大きく改良された重要な点は昼のコースの新設です。’91 年までは土曜講座を別にして、夜のコースのみでした。’92 年昼の研究科・専科を新設、’95年には本科Ⅱ・基礎科・専科と昼のコースの増設をはかり、「昼の民美」を打ち出しました。同6 月に民美創立25 年記念展が目黒区美術館区民ホールで開催され、卒業生の交流ができました。’99 年には昼コースの生徒数が夜コースを上回り、以後昼の生徒数は増えていき、合わせて70 名以上の生徒が集うことになってきました。昼のコース新設には子育てを終えた世代や、退職者を教育していく民美の新しい方向があります。しかしまた若い世代を育て、「次代の担い手」とする方針もあり、重点をどこに置くのかで揺れ動く時期で、運営委員会では様々な意見が交されました。
新しい民美の再生に向けて
 2001 年夏に民美はお茶の水に移転します。新民美に向けて同時に’99 年からの編集作業を経て、創立時からの念願だった教科書「技法書シリーズ1感動空間・デッサン」が上梓されます。民美同窓会も再建され、天井の高いアトリエは民美運営委員会も新しい風を受けたように大巾なコースの見直しを計ります。初めての試みの午前2日コース・午前人体コースを新設します。このコースは本科ほどではないが、もう少ししっかり勉強したい生徒の人気を得て、’09 年に増設され、同年には長期にわたる赤字体質だった本科夜を中止して、健全経営の方向になります。2000 年代の新民美では、週1 日コース・週2 日コース・週4 日の本科と、午前のコース・午後・夜のコースと多様な内容にして、生徒の希望に応えられるようにしていきました。さらに週1 日から段階的に本科に進められるような指導を心掛けることになります。このような民美全体としてどう運営し教育するかの指針を持つことで、生徒数も徐々に増加していきます。2000 年代後半は80 ~ 90 名以上の生徒が学んでます。赤字を作らないこととコースの増加で、民美はようやく安定的な運営が可能になりました。2011 年に生徒数は100 名となり、以後120名を越える生徒が民美を利用しています。’12 年に体験教室的な月2 日の水彩コース、’15 年には立体造形の別室・実験工房を増設しましたが、その成否はまだ不明なようです。合計10 種類のコースを持った民美は、日曜日を除きどこかで必ず授業が行われるようになりました。
おわりに
 1967 年に開設の後、50 年経過しましたが、創立時の「新しい美術家を養成し運動の次代の担い手を作る」「美術教育の民主主義的革新」という目的はどう具現されたでしょうか。以下大まかなものですが提示してみます。日美の重要な事業のひとつ、日本アンデパンダン展の全出品者の25%ほどが民美卒業・終了・在所生です。また実行委員会の働き手も民美関係者が多くなっています。さらに会の中心的な実務活動に携わる役員にも民美出身者がおり、人的担い手は育ってきていると考えられます。「美術教育…」について、現在の生徒は若い世代が少なく中高年中心ですが、各コースは複数担任制を採用してカリキュラムが検討され、担任を中心に講師と共に授業を行っており、多様な美術のあり方を教えています。諸々の事案と研究所の運営は所長をはじめ、運営委員会で論議された上で決定し、また民美内規も充実したもので、それに従って運営されています。赤字を作らない体質は日美財政にも貢献できるようになってきているようです。しかし、現状から未来を俯瞰して見た時、決して安穏としていられない問題が見え、今から対策を検討する必要を感じます。2012 年の新入生の平均年齢は60 歳、’15 年新入生では65 歳となっており、やはり団塊世代を中心にした人たちが学ぶ民美になっています。今、美術大学でも少子化で成人教育に力を入れ、企業のカルチャーセンターも次々新しい企画をたてています。その中で民美の魅力を示していく必要があり、「大学でも私塾でも、カルチャーセンターでもない」の言葉に表れるように美術の本質からの教育、懇切丁寧な指導と考えぬかれた教材が民美らしさを作るものと考えます。担任間の造形性や指導技術の交流・相互理解を深め、民美一体となった美術教育が望まれ、民美50 周年を機に「技法書シリーズ1感動空間・デッサン」を補足し、課題やコースの特質に応じた手引きや技法書なども必要でしょう。「教える者と学ぶ者は、互いの独自の役割を厳格に追求しつつ、相互の協力によって民主主義的美術教育を研究し創造し建設していく」方針を掲げ創立50年を迎えた民美は、これからも望み求められる美術研究所であると思います。      (民美所長 佐藤 勤)