日本美術会のあゆみ 6

多様な創造と時代の表現

1989 年- 2000 年

世界の激動の中で
 1989 年11 月9 日ベルリンの壁が崩壊しその後東西ドイツが統一、1991 年12 月25 日にはソ連が崩壊し、いわゆる第二次世界大戦以後の冷戦体制が終わりを遂げたことは世界的大事件であり、内外の情勢に大きな波紋を呼ぶこととなった。一方国内では80 年代後半のバブル経済が1991 年に崩壊し、70 年代以降続いてきた高度経済成長が終焉を迎え、その後の長期不況の引き金になり、美術家周辺の生活状況に影を落とし始めていった。
 この世界情勢の変動について、日本美術会は2 回の公開セミナーを開催し東独の美学研究者を招いてベルリンの壁が崩れる前後の貴重な体験に基づいた報告と問題提起を行なうなど、深い関心を示した。   
 またこの時期、目黒区美術館・岡山県立美術館・名古屋市美術館・成川美術館・東武美術館や地方の美術館等が次々と開館し、労働者・庶民の経済力の向上もあって、美術が生活に身近なものになっていった。「ルーヴル美術館展」(1991 年)に47 万人、「バーンズコレクション展」(1994 年)に107 万人、「第1 回印象派展とその時代展」(1994 年)に40 万人が入場し、大型展覧会の大量動員の体制が作られていった。一方、空前の「名画買いあさり」がすすみ、絵が投機や転売の対象とされ、もっぱら金儲けの手段となる事態も引き起こされた。
 こうした世界情勢や美術状況にたいして、日本美術会は社会的・人間的主題を扱って幾多の優れた作品を生み出してきた日本アンデパンダン展の独自性を評価するとともに、表現の自由への干渉、退廃・刹那主義など現代の資本主義文化への警鐘を鳴らし、日本美術会の存在意義が文化的危機の進行する現代においてますます大きくなっていると主張した。
日本アンデパンダン展の新しい展開
 膨大な商業主義の氾濫の一方、高度に発達した新しいメディアの中で、日本美術会は新しい美術創造の新領域、インスタレーション・アート等、美術の既成概念を超える美術潮流にも注目し、「諸流派の独自性を尊重し、相互に認め合いながら、大局的に一致するところで協力し合う美術運動」を模索していくことになる。とりわけ現代美術の多様な全体的流れは新しいテーマと表現を求めて揺れ、美術の枠組みそのものが動揺、拡大して、ジャンルの枠をつき壊したい気持ちが広がっている。民主的美術運動に参加している美術家の中でも模索と実験も発展している。それぞれの発想と感性による多種多様な表現で“ 現代”との格闘が行われ、新しい価値の創造を探求する努力が進められてきた。
 こうした表現方法の多様化への対応、新しい表現に向けた実験として、42 回日本アンデパンダン展(1989 年)の企画展示では「インスタレーションをはじめとする新しい表現方法のスペース」が設けられた。この問題は会内でも活発に議論され、積極的に取り組んでいくべきという意見とともに相互理解が必要だとの意見も出された。その後第47 回展(1994 年)にはパフォーマンス出品者の増加もあって、インスタレーションスペースを上野の谷中の町にも拡大し新たな展開をはかった。この出品者を中心に取り組まれた「アート・フォーラム」「フォーラムMOVA(現代美術と視覚化する力)」(1993 年)も盛況だった。以降、インスタレーション・パフォーマンス表現は、日本アンデパンダン展の一つの特長として定着してきている。
第50 回記念展
 1997 年には第50 回記念日本アンデパンダン展が開催され、特別企画展の一つとして「検証展「60・70 年代のアンガージュマン(注)展」、国際展「アジアの心とカリブの心展」を特別陳列した。国際展ではキューバ・韓国という厳しい国際状況下にある美術が、かえって緊張感ある生命力を示したことに注目が集まった。キューバ1 人、韓国3 人の来日があり交流があった。これらの企画展示は国の「文化振興助成基金」から200 万円の補助を活用しておこなった。(注:知識人や芸術家が現実の 問題に取り組み、社会運動などに参加すること)
 同記念展のテーマ展「現代の視覚展」(公募)の全体では、「戦争と平和」「環境」「人権」といった社会的視点と問題意識を直接感じさせるものが多く力作も目立ったが、反面混沌とした時代をまるごと映そうとする人間風景や人間存在を問いかけるもの、木や空や花に現代の状況やその中での人間の心情を重ね合わせ真理を見ようとするもの、混乱と危機、不安の時代だからこそ大切なものを守ろうとするものなども見られ、個々様々の「現代の視覚」を再認識することになった。なおこの「現代の視覚展」には、公募作品の他に「特別展示」として、会外の3 作家-柳幸典、ジョルジュ・ルース(仏)、福田新之助-の作品も加わった。これは会外の現代作家の参加としては、初の試みだった。これらの展示はわが会と日本アンデパンダン展のこれまでの取り組みの一貫性と創作面での成果を示し、これからの創作活動を勇気づけるものであった。それは総じてヒューマンで民主主義的な基盤をも感じさせるものであり、単に社会的な作品であるにとどまらない、日本アンデパンダン展の伝統を示すものであった。
 50 周年記念では記念画集「創立50 周年記念-日本美術会・日本アンデパンダン展作品(1972 ~ 1996)と歴史」(美術運動125・126 合併号)を発行した。この記念画集はこれまでの創造活動の成果と水準の再点検の手がかりとなるとともに、これまでの運動と創作活動への確信を得られるものとなった。
 50 周年という節目を過ぎて、51 回展(1998 年)の企画展示「現代の人間像」は21 世紀を展望する気鋭の作家の作品を展示し、作品群の醸しだす現代の側面を強い印象で残した。51 回展の現代に向き合うというテーマをより具体的な視点で捉えるため、52 回展では戦争と人間のテーマそれ自体が自己点検や発展の契機となるとして「20世紀の戦争と人間」と題した公募によるコーナーをつくった。
 日本アンデパンダン展の新たな展開は様々な分野・方法で多彩に試みられていった。第44 回展(1991 年)から「批評と感想(展評)」が発行され、現在までアンデパンダン展ならではの批評集として定着してきている。「展評」は日本アンデパンダン展全体の評価と問題点、その展望に対してより多くの出品者が共に考え発展させていく上で特に重要なメディアとなっている。
 第49 回展(1996 年)では数年来声のあった従来のジャンル別展示方法を変える試みとして混合展示室を設けるなど、より自由で開放性のある空間へと取り組んだ。また青年出品者が繋がり、力の出せる「場」をつくろうと青年コーナーが設置され、合評会や交流会が活発におこなわれた。
日本美術会展
 70 年代若い会員の増加、地方での活発な表現活動が展開される中、日本美術会展(京都市美術館)は「会存立の原点、会趣旨の精神に基づいた創造の探求を目的とする会員の展覧会」として1974 年に始まった。2 回展は1980 年に開かれたが、6 年間の空白を生み、会場が半館分借りられず、止むを得ず選抜の提案がされた。しかし多くの反対意見があったりして、相当な論議があった。結果としては知恵を出し合い希望者全員を受け入れることで決着した。
 その後は関西地域委員会や京都・大阪地区での実行委員会の「極めて積極的な働き」もあり、2年に一度の開催を続け、日本美術会の創作団体としての力量を、日本の美術界の中で問い続けた。6 回展(1988 年)を迎える頃から、参加率の低下、財政上の問題、開催地との運営上の連携など極めて困難な状況を迎え、32 回総会の中でもその開催について大きな議論となっていた。
 しかし、7 回展(1990 年)で企画された「日本美術会-その創造の足跡PART Ⅰ」は、激動する現代社会の中で、真に時代の証言者たり得たかという検証と、多様化しつつある表現の可能性が問われるものであり、今後の展開の糧となるものであった。さらに8 回展(1992 年)の「日本美術会―創造の軌跡PART Ⅱ」の開催、9 回展(1994 年)での企画展示「現代の風景」「60 年代の軌跡」、10 回展(1996 年)での企画展示「戦後50 年の視野」、11 回展(1999 年)の企画展示「環境の危機-美術からのメッセージ」、12 回展(2001 年)企画展示「時代の叫び」と積極的な企画や展示やシンポジウムが行われ、13 回展(2002年)まで続けられた。
 会員展は東京以外の地域で日本美術会の運動や創作を伝え、拡げるものとして努力し、評価も徐々に高まったが、その後開催困難な状況を迎え、各地域での「自主的・自覚的」取り組みの重要性も叫ばれる中、2005 年以降、日本アンデパンダン展の出品者の希望者により、当初は移動展として、その後は現地実行委員会の主催として日本アンデパンダン広島展・京都展の開催に引き継ぐことになった。従来の京都での開催に加え、唯一の被爆地、平和運動の拠点広島での開催は積極的な意義と役割りを果たした。しかし、2013 年9 回の広島展、2014 年10 回の京都展を迎える中で財政的負担や開催地での負担も増し、各地域での自主的・主体的取り組みの重要さも指摘され、新たな形の模索が開始され、日本アンデパンダン広島展・京都展を当面閉じることとなった。
「創作上のリアリティ」と研究活動
 この間の美術状況の特徴は従来のプロレタリア美術系と新しく台頭してきたアバンギャルド系の両極を併存させてきたことだろう。この両者は結び合うことがないまま経過してきたが、この点について日本美術会の立ち位置はどうあるべきかという議論は総会・シンポジウムなどの中でかなり活発に行われてきた。
 その中心的考え方は、美術の既成概念の枠を超える諸傾向もふくめ、諸流派の独自性を尊重し、相互に認め合いながら、大局的に一致するところで協力し合う美術運動をつくりだす、という立場であった。たとえば、第35回総会の委員会報告では次のような指摘がなされている。「いま創作上の発展にとって問われているのは、表現形式や方法の違いや優劣の競い合いではなく、その形式や方法を選択したことの必然性であり、それによって個々の違いを超えた共感と交流の可能性も開かれるであろう。また会にとっての課題は、異なった-あるいは対立的な-芸術上の立場の者の間での論議の活発化や創作上の競い合いと共同の作風(マナー)の形成や相互批評の習熟であろう。」
 こうした会の創作スタンスの論議として、日本美術会のシンポジウムは1969 年に「創作」と「統一」をテーマに第1 回(知多半島)が開催された。その内容は①リアリズムをいかに多様に発展させていくか、②様々な流派を超えての統一行動をいかに進めていくか、③その中での批評の問題が中心的テーマであった。
 その後シンポジウムはしばらく途絶えていたが、1992年7 月に第2 回日本美術会シンポジウム(静岡市)が開催された。そこでソ連崩壊後の世界で民主的社会変革を深く問い直し、自分たちの歴史と今後に光を当てるための問題提起や、創作団体としての会員個々の資質や力をどう結集するかが最大の課題であるとの議論が行われた。1996 年の日本美術会展の中で行われた第3 回シンポジウムでは「われわれの表現とリアリティ」と題して「現代的な表現の意識や方法とわれわれの探求するリアリティとの関係について」熱気ある討論が行われた。2000 年10 月の第4 回シンポジウム(蒲郡)では「私たちにとってリアリティとは?」をテーマに開催した。「日本美術会は手法としてのリアリズムを創作方法として一本化している美術団体ではなく、そのようなリアリズムを目指す人たちばかりでなく、そうではない人たちを含むさまざまな立場を横断する創作態度上のリアリティ問題」(シンポ報告集)として幅広く議論が進められた。          
 このリアリティ問題は第52 回日本アンデパンダン展(1999 年)の記念講演「戦後日本のリアリズム美術を考える」(山田諭氏)を経て、「美術運動」128 号(1999 年)での「『リアリズム』論の再構築のために」、129 号(2000年)でも「現代の美術とリアリティ」、130 号(2001 年) 「現代の美術とリアリティⅡ」、131 号(2003 年)「現代の美術とリアリティⅢ」として特集され、名古屋市美術館の「戦後日本美術のリアリズム1945~1960 展」(1998 年)もあり、従来のリアリズムの捉え方を創作上のリアリティとして多面性と多様性を明らかにし、『態度としてのリアリズム』の見地を確認していく視点が浮き彫りになっていった。  
都美術館値上げ反対運動
 この間、東京都が東京都美術館の使用料の大幅な値上げを検討していることがわかり、いち早く反対運動に立ち上がった。1991 年12 月には「東京都美術館の借館料・入場料の大幅な値上げを行わないとともに、管理運営の法人組織化や民間委託をしないよう求める」請願書を日本美術会・美術家平和会議・全日本職場美術協会の三団体により東京都議会に提出し、1992 年2 月には都美術館全借館団体へ三団体共同の「お知らせとお願い」と請願書を送り、1993 年11月には三団体共同で東京都知事に対し「東京都美術館に関する意見、要望、申し入れ書」を手交し、担当者と交渉した。翌年は再び東京都美術館に三団体共同の申し入れ、1997 年には日本オーケストラ連盟の呼びかけで音楽関係者を中心に「東京都美術館使用料大幅値上げを許さない会」が結成され、反対のコンサートや署名・宣伝活動を始めた。こうした中で美術家連盟、「美術懇話会」なども都に働きかける状況も生まれ、一定の値上げ縮少となった。1998 年7月には「芸術文化都市東京を創ろう!ネットワーク」が設立され、広範な文化人の運動が開始されることになった。
組織問題
 <地域連絡会>
 日本美術会の真に活発な活動を実現していく上で、各地域における独自な会活動の確立と会全体の運動理念を統一していく方向として地域組織を充実することは、新しい民主的美術運動の全国的発展に不可欠であるということで、早いうちから呼びかけられてきた地域連絡会は、第31 回総会(1989 年)で従来の「地方連絡会」を「地域連絡会」に修正し、「各地域の実情にあった会員相互の意思疎通の基礎作り」(総会報告)として、その推進と強化を謳った。しかし、第32 回総会(1991 年)では、その推移はなかなか期待したようにはいかず結果的になりゆきを待つ消極的な対応に留まったとしている。第35回総会(1997年)以降、新センター建設資金のための展覧会などの取り組みを中心に、全国各地で地域連絡会の結成や多彩な活動が進められた。その後三重地域連絡会、京都・滋賀地域連絡会、広島地域連絡会、常磐線沿線地域連絡会、青森地域連絡会、中部連絡会、愛知連絡会、群馬連絡会、京成沿線連絡会、岡山地域連絡会が結成され、岩手・長野・大阪・埼玉・沖縄も準備が進んだ。
 <入会基準の改善>
 1986 年以来、入会の審査方法を改善し、それまで入会希望者の若干名が日本アンデパンダン展不出品であったり、作品写真の不提出があったりしたことから、32 回総会(1991 年)での入会手続きと入会審査を、日本アンデパンダン展に最低1 回以上出品していることを条件にすることにした。1997 年7 月の第35 回総会では、①会員2 名以上の推薦、または②組織部の推薦を経て委員会(常任委員会)の出席二分の一、日本アンデパンダン展出品が絶対条件ではないが、少なくとも4 ~ 5 年は出品していることが望ましいと改定した。その後第37 回総会で見直しが確認された。その内容は「日本アンデパンダン展に原則として3 回以上出品の経験を持つこと(ただし絶対条件としない)」「出席委員の三分の二の賛成」が条件となり現在に至っている。
機関誌「美術運動」など
 「美術運動」は日本美術会の結成の翌年、1947 年1 月に新聞形式で創刊された。40 年代から50 年代は年に5回から9 回の発行もあるが、困難な中ガリ版刷りを経て、1953 年8月には雑誌となり年2 ~4回の発行を維持し、1978 年9月まで109 号を発行して積極的役割を果たしてきたが、赤字累積のため、復刊に向け固定読者の拡大と機関誌内容の改善への期待を呼びかけつつ休刊やむなきに至った。休刊中は会報とそれへの折り込み合併号などの工夫をしての活動となったが、1983 年復刊「美術運動」のためのシンポジウム「今、私、美術運動」を開催するなど新たな発展を目指しての議論をすすめ、1984 年「ナンバー110 号、復刊美術運動」を発行した。財政上の措置として、発行費用を会費に組入れたり、販売に力を注いだりの努力が続けられた。
 しかし、その後も発行を維持していくことは大きな困難を抱え、「美術運動」誌は1990 年には年4 回発行予定が年2 回に、1992 年には 1 回になり、その発行体制を見直さざるを得ない状況を迎えた。そのため協力出版社探しを始め、1992 年大月書店と折衝するが不調に終わり、その後合併号を発行(123.124 号)の後、1994 年には社会文化工房「トポスの会」と交渉して提携決定し、4 月第3回委員会で提携確認をしたが、5 月第4 回常任委員会で異議が出され、委員会において当面凍結から12 月に白紙に戻すことが決定された。この間の詳しい内容は「第34回総会各部報告」(会報No.91)に詳しく記載されているが、この教訓を活かし、第35 回総会(1997 年)では、「①「美術運動」誌は発行し続ける。②編集方針の基本として会趣旨に基づき、…中略…会外の美術運動との連携・共同を目指す企画を打ち出す。会内外のそれらの運動の紹介、理論を積極的にとり入れる。③発行主体はあくまでも日本美術会とし、方針の決定は広く会内の意見を求め、尊重しておこなう」との基本を確認した。これらの経過は会の主体性の問題として重要であった。その後、6 年余の空白を経て、1998 年9 月に「美術運動No127」を発行し復刊した(125.126 号は50 周年記念画集)。以降、年に1 回の発行を維持している。カラー化も行い、新しい美術状況の中で、幅広い視野に立った美術運動を担いうる、会内外の理論・研究活動・美術状況の紹介に大きな役割を果たしてきている。
 2000 年12 月には日本美術会・日本アンデパンダン展ホームページを作成、「美術運動」もWEB 版を作成し、現在まで充実発展され情報化社会での発信に貴重な役割を果たしてきている。            (百瀬邦孝)