抵抗して斃れた美術家からの伝言

荒木國臣

戦後日本は、もっとも惨酷な悲劇となったアジア・太平洋戦争に抵抗した人たちの記憶をどのように刻みこんできたのか? 王政に抗する市民革命を遂行した経験が弱い日本では、国賊とか非国民と指弾されて獄中に斃れた犠牲者たちに、後世の者が想いを寄せて敬意をはらうことが少なく、むしろ歴史の後知恵による批判さえくわえてきた。戦争とファッシズムに真っ向から対峙し、戦後美術運動を立ちあげてきた美術家たちが次々と世を去り、血で贖った経験をオーラルな記憶として継承する最後の時間が過ぎていくなかで、耳を澄ませて彼らの声を聴きとって次世代に伝えねばならないと切に思う。
●国家総力戦体制と美術家の選択
 ある時代の帰趨は、すべての人の選択の集積の総和として決定されていくのであり、欧米の白人支配からアジアを解放するという虚構の「大東亜共栄圏」も複数の価値観の一つでしかなく、平和の共同体をめざす別の可能性もあった。なぜ、私たちの父祖は戦争の道を選んで、平和の道を選べなかったのか? 総力戦体制をめざす国家は、世界史上もっとも野蛮な治安立法によって抵抗運動を抑圧し、画家たちを一元的に統制する「美術報国会」を組織し、協力しなければ画材を断つ脅迫をくわえ、天皇に殉死する聖戦美術体制を構築した。剥きだしの国家暴力に直面した美術家たちは、芸術の自律性をめぐる極限状況にあって最後の選択を迫られ、多くの者が虚構の聖戦美術に参入していった。その背後には、国家を批判的に相対化する視点を形成しえなかった日本近代美術の限界があり、現代においても払拭されていない(文化芸術懇話会の「政策芸術論」に協力する芸術家たち)。
 滞欧経験のある在野系の美術家たちは、「国家社会主義」の「革新」性に期待して画壇を改革する幻想を抱き、一部は権力への反動形成にのめりこむ現代アメリカのネオコンのような痛ましい事態におちいった。インドシナ文化大使となって文化工作をになった陸軍美術協会理事長・藤田嗣治は、当時のインドシナ共産党から「日本ファッシストのくびきの下でのベトナム文化の危機をもたらす大東亜主義を宣伝する、日本人は黄色人種の救世主であり、日本文化は大東亜の各人種のために先進的文明として輝いているなどの観念をつくりだす」(「ベトナム文化綱領」)と指弾されながら、大東亜共栄圏の聖戦美術を主導した。
 新進気鋭の青年美術家は、「もはや自由主義的世界観は崩壊したのである。功なり名遂げた老大家達によって組織される帝国美術院などあってなきが如くで、今日非常時局に何ら積極的な意義は見出せない。これからの美術家は政府の指令に従って彩管を以て滅私奉公しなければならない」(難波田龍起『美之國』16−9、1940年)と述べ、聖戦美術体制を無鑑査制を打破して美術界を一新し、美術家の生活を保障するチャンスととらえた。人民戦線の一翼とみなされて抑圧されたシュールレアリズム系の画家は、「戦争画は戦争の真実を伝へられない限り、徒なる勧善懲悪主義の宣伝教育画に堕す。大東亜戦争の理念表現としての戦争画は、相当豊富な構想と表現とによって描かねばならない。兵器は現代科学の粋であり、形態美と機能が完全に一致した点で最も好ましいものだ」(福沢一郎『新美術』1942年7月)とし、国策に協力する前衛芸術へ転換した。
 中堅の美術家たちも、「平和に慣れ過ぎて乱を忘れ、挙国一致の生活的連帯性を忘却した時代の罪であり、今がそれが清算されるべき絶好の機会である。(中略)新体制とは一切の生活機能が日本国家理念の上に、正しく、強く、その本質として生きることだ」(内田巌『アトリエ』7−11、1940年)と新体制とむすぶ表現への転換を訴え、本郷新は「創造の自由、喜びといふものが即ち国家の目標に結びつく、此の時代を1つのチャンスとして伸して行くことが必要だと思ふ」(『造形芸術』1941年2月)とし、「神格化された忠霊といふ日本的象徴観念を具象化する」(『新美術』1942年8月)新しい造形を主張した。
 縁辺にあった女性美術家たちも、女性作家の社会的な認知と家父長制からの解放を求めて聖戦美術に献身したが、彼女らの描画は軍隊に志願する少年や戦う兵士をささえる銃後のイメージとなって、良妻賢母のジェンダー規範から逃れえなかった(長谷川春子他≪大東亜戦皇国婦女皆働之図≫1944年)。多くの美術家たちを戦争の共犯者となるまでに追いつめた天皇制ファッシズムの死の美学を凝視し、そのプロセスを解明して学習しなければ、後世は違った形で再び同じ過ちを繰り返すことになる。
●抵抗の美術運動
 聖戦体制の虚構をみぬくには、明治以降の日本の近代を相対化する認識が求められ、少なくない美術家たちが抵抗の道を選び、プロレタリア美術運動は貧困の世界を解き明かす新しいリテラシーによって、ヒューマンで豊かな民主共和制の世界を示す本格的な異議申立運動となって大きな影響を及ぼし、1930年の東京美術学校西洋画科の卒業制作の約半分が労働者を主題とし、1932年のプロレタリア美術家同盟員数は175名にのぼった。
 人間の尊厳を恢復する渾身の力をこめたリアルな表現によって、観照的な唯美の世界に衝撃を与え、民衆の生活とむすぶ「移動展」や文工隊の似顔絵活動は、今日の社会参与芸術(ソーシャル・エンゲイジド・アート、SEA)の先駆となり、戦後韓国の民族民衆美術運動や現代日本のサウンド・デモやストリート系アートの源流となり、工場と農村を中心にくりひろげたサークル運動は初めての民衆の自己表現運動となって、戦後の職場美術運動に受けつがれた。プロレタリア女性美術運動は、前近代的な女性像から抜けだし、自立して生きぬく新しい女性美術の地平を切り開き(大村かねよ≪野良≫1933年、川上律子(*川上貫一の娘)≪面会≫1935年)、新井光子は児童を成人から独立した独自の存在とみなす画期的な児童絵画運動を展開した(『児童絵画論』1931年、内外社)。
 大衆運動とむすぶ宣伝活動は、ハイ・アートが無視してきた広告宣伝の分野に、資本から自立した理念と技術をもちこんで応用芸術の発展をもたらし、プロレタリア漫画はモダン技法とリアリテイを組み合わせた斬新な風刺の世界をひらいて漫画界をリードし、植民地中国の抗日文化運動に大きな影響を与え、魯迅の指導する上海漫画集団は柳瀬正夢を” 世界的な左翼風刺画家” と呼んだ。こうした作品の多くが消失して閲覧が困難となっているのは、非合法の活動で作品の保全が困難となり、空襲や疎開によって焼失し、特高が押収した作品は敗戦で焼却処分され、さらに占領軍が押収して持ち帰ったことにあり、後世は埋もれていった作品を発掘して光をあてる責務がある。
●戦時抵抗と転向
戦時抵抗は、逃げなければ殺される命がけのものであり、捕らえられた者の選択肢は非転向の獄死か発狂、転向か偽装転向、逆転向しかなく、少なからぬ者が良心を守って獄中に散った(獄死者数1、617人、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟資料)。河上肇の影響を受けてプロレタリア美術運動に同伴した津田青楓は、小林多喜二の虐殺を主題とする≪犠牲者の拷問≫(1933年)を制作中に検挙され、苛烈な取り調べのはてに理論偏重の運動を批判して日本画へ転向していった(『老畫家の一生』中央公論美術社、1963年)。
 不幸にして転向した者にたいし、「転向作家は、転向するよりも転向しないで、小林(*多喜二)の如く死ぬべきであった」(板垣直子「文学の新動向」)などと裁断する者は、権力と対峙する葛藤にたいする無知を示している。では、戦術的に戦争画を描いた画家たちをどう評価すべきか。古沢岩美は敵か味方か分からないダブルミーニングで描き(≪海ゆかば≫≪山ゆかば≫1942年)、糸園和三郎は時代への心象批評をこめ(≪犬のいる風景≫1941年)、井上長三郎は日本軍の敗北を暗喩的に描いた(≪漂流≫1943年)。
 文化運動の弾圧を指揮した当時の最高検公判部長は、「芸術は理屈抜きに人の感情に訴えて、見る者の心を動かして、蜘蛛の糸の如く組織なき組織を形成する。いったん潜入した感情は、これを抜くことは極めて困難であり、その特性に根を置く文化運動の持続性は恐るべきものがある。政治や経済闘争は組織を壊滅させれば終わるが、文化運動は組織を破壊しても、根は地下深く潜行して根絶は容易でない」(平出禾( ひいず)『司法研究』28ー9、1940年)と述べたが、戦争批判の暗喩をこめた作品にはそうした心性が滲みでており、軍部は会場から撤去した。
●プロレタリア美術運動から何を汲みとるか?
 プロレタリア美術運動は、苛烈な弾圧をうけてしだいに尖鋭な政治性を帯び、「芸術運動は、従来の原始的多元的な芸術運動の埓内から全面的、一元的な政治闘争へ転換すべきである」と主張する福本イズムの影響を受け、抵抗運動のビジュアル・デザインをになうアジ・プロ活動へ傾斜していった。
 美術運動の理論活動は、文芸ジャンルの蔵原惟人や中野重治が主導する芸術理論に依拠し、旧ソ連の政治の優位性のテーゼとむすぶ革命芸術論を機械的に適用する主題主義におちいり、反ファッシズムを反資本主義とみなす前衛的な意識注入論によって、投獄を覚悟する強烈な政治的メッセージをこめた表現をうちだした。ダイレクトな告発の表現が直線的に実践運動の武器となる輝かしい時代の感性を示したが、あるイメージの効果をあらかじめ設定して望ましい感性が生まれでることを期待する「目的芸術」は垂直的な啓蒙性をおび、かえって現実の本質から離れていった。「ブルジョア美術の形式に反抗することのみ、アジ・プロのための迅速な絵画のみがプロレタリア美術であるという誤謬」(村山知義、1928年)から抜けだそうとする試みは、日本の現実にマッチした独自の理論をつくりだす前に解体に追い込まれた。
 帝展や一般公募展ときりむすんで画壇の民主化をめざすよりも、それを全否定する急進的な方向へ展開し、山本鼎の「農村美術運動」やアンデパンダン共同戦線をめざした竹内久七の「リアン運動」、二科会の社会派(新海覚雄)、帝展系の同伴者作家(前田寛治)、シュールレアリズム系の美術文化協会、「人間としての最低限の自己主張をしたい。死ぬのであれば、描きながら死にたい」(麻生三郎)とした新人画会など、ファッシズムに抗する広範な美術家たちとの連携は進まなかった。欧米の抵抗運動は、社会ファッシズム論を克服して、「神を信じる者も信じない者」もともに手をむすぶ反ファッショ人民戦線運動へ展開したが、日本の抵抗運動は欧米をはるかにこえるアジア的な野蛮のなかで焦燥感を帯びて先鋭化し、広範な反ファッショの対抗軸を構築する前に挫折した。
 抵抗の過程で斃れていった気高い感性を決して清算してはならず、彼らは変革運動のただなかを試行錯誤を重ねながら生き抜いて挫折したのであり、彼らが遺していった遺産にある確かな果実を受けつぎ、彼らの初発にあった希望の源泉に立ち返って、現在のなかに置き換えることが求められる。プロレタリア美術運動は、苛烈な時代の網の目から紡ぎだされた苦闘の産物であり、時代の傍観者となることを峻拒した証しによって、日本の近代美術の汚点はわずかに救われており、彼らの運動なしに新しい戦後美術の出発はありえなかった。失敗や誤謬をともなわない完全無欠な運動はありえず、どのように正しい方針であろうとも、最終的には力関係で決まるのであり、歴史の後知恵による超越的な評価に生産性はない。彼らの志がなぜ実現しなかったのか、そこに刻みこまれた失敗をふくめて具体的に明らかにし、異なった条件にある今日にあって、なにを汲みとり、どう生かすかが問われる。
●廃墟から蘇った希望の芸術
 敗戦の廃墟のなかから、戦争芸術の悲劇を二度とくり返さないという誓約を実体化し、流派をこえて自発的に結集した日本美術会の歴史的な意味は大きい。日本美術会は、画家たちの戦争責任をどう決済しようとしたのか。狂信的な超国家主義に走って聖戦美術を主導した一部の美術家を除き、第一義的な責任は表現の自由を奪った天皇制ファッシズムに帰せられ、美術家の戦争協力にたいする責任追及は、「忘れず許さず」という復讐をこえて、「忘れず裁く」から「許すが忘れない」という崇高なレベルへ至るが、それは真摯な内省なしに成立しない。
 日本美術会は、「許すが忘れない」という罪責論を選択し、「戦争画家を排除するものではない。だが、戦争画家ははじめに自己批判したうえで加盟すべきだ」(永井潔)とし、「美術家の戦争責任の追求は、政治問題ではなく、美の問題として究明する」(創立総会決議)と位置づけ、戦犯リストを提出してGHQの審判を仰ぐのではなく、聖戦美術の「汚辱の歴史の究明とその自己批判を徹底化する」(『日本美術会会報』4号)方向へふみだした。
 「絵描きは絵描きである前にまず人間でありたい」(内田巌)として歩みだした日本美術会は、特陳≪戦争犠牲美術家の遺作≫(靉光、柳瀬正夢、川上律絵など149点、第2回アンデパンダン展、1948年)によって抵抗の志しを引き継ぎ、人間の尊厳をまもる表現を貫ぬく数々の秀作を生みだし(鶴岡政男≪重い手≫1951年、山下菊二≪オト・テム≫1951年、新海覚雄≪構内デモ≫1955年)、本郷新の≪わだつみのこえ≫像(1950年)は東京大学構内への建立を拒否されて立命館大学に設置され、1969年の大学紛争時に急進派の学生によって破壊されたが、翌年に再建されて現在にいたっている。日本全国に地鳴りのようにわき起こった戦後の美術運動は、各地の平和美術展や全国職美協の職場美術展、地域アンデパンダン展、さらに「9条美術の会」など、地域に埋めこまれた多彩な展開を示し、日本美術会は一定の役割をはたしてきた。
●戦後70年をへて
 戦後日本の歩みのなかで、戦争の罪責を問う作業は未完に終わり、過去の罪責を忌避する靖国史観があらわれるなかで、南京の巨石を取り寄せて制作された「紀元2600年」記念のモニュメント≪八紘之基柱( あめつちのもとはしら) ≫(日名子実三、1940年)は、「八紘一宇」の文字を削除して≪平和の塔≫と改称して存置され、1965年に文字が復元されて今も聳え立っている(2015年に中国から石の返還を要求され、日本側は拒否した)。睨みあうように屹立している≪わだつみのこえ≫と≪八紘之基柱≫は、戦後責任をめぐる相剋を象徴的に示している。アジア・太平洋戦争で犠牲となったアジア人2000万人と日本人310万人(含む朝鮮人)の魂は、今もなお怨嗟の呻きをあげてさ迷っており、旧西独の首相がワルシャワの大地にひざまづいて赦しを乞うたように、日本の首相が南京の大地に頭を垂れてひざまづくまで、日本の戦後が終わることはない。
 今日の美術界は、流派をこえた自由闊達な交流や熱い論争が姿を消し、大正モダンの時代と同じように明るくポップなモダン・アートが咲きほこっており、傷つき痛んでいく格差と貧困のなかで、再び新しい戦前が姿をあらわしている。こうした動向に対峙する表現は、かっての階級還元的な表現から、プレカリアートやマイノリテイ、ジェンダー、核やエコロジーなど多様に交錯する表現へ展開し、現代のリアリズムは特定の流派的な表現様式から、対象の本質にせまるアプローチへ転換し、その内容は抽象やファンタジーをふくむ自由で多彩な表現へむかっている。具象や抽象、ファンタジー、魔術的リアリズムであれ陰惨な暴力リアリズムであれ、対象の本質に迫って形象化する限り、すべてリアリズムであり、不条理芸術をデカダンスとして否定するのではなく、そこにある歪みを人間疎外の深奥を探る表現として凝視し、奪われ失われていく協同を恢復する方向を探らねばならない。現代のリアリズムの可能性は、異なる多様な表現様式がたがいに交響しあうなかで、リアリテイの内実がたがいに試される過程にある。
 日本美術会は、21世紀の多元的な文化運動の先駆となる「中核規定を持たない多元的連帯」(永井潔)という会派をこえた運動体として出発し、「日本美術の自由で民主的な発展とその新しい価値の創造」(「趣旨」)をめざし、さまざまの困難をのりこえて歩んできた。いま、現実に深化する危機のなかで、意識すると否とにかかわらず、日本美術会の本旨が再び新鮮なイメージをもってよみがえり、本格的に試されるダイナミックな時代を迎えている。